【織田有楽斎の大草城】の謎「築城・未完成そして意図的な保存?」知多半島に残る織田の大要塞とは
愛知県知多半島。海に面した丘の上に戦国時代の城の跡が残っています。その規模はかなり大きく、地図で確認できるほど。台地の端にくっきりと堀の形が見えます。城の名は大草城。天正年間に織田信長の弟、長益によって築かれたと言われています。当時天下に一番近かった戦国大名織田家。その一門の城ということで、かなり立派なつくりだったのでしょう。ところが大草城にあったのは堀と土塁だけ。この上に天守や櫓が建てられることはありませんでした。実は土台部分まで造ったところで工事は中止。未完成の城なのです。さらに面白いのは城の跡が当時のまま残っていること。その後壊されることもなく現在に至ります。織田信長の弟の城にして未完成、再利用されることもなく残る。大草城は謎の多い城です。この一帯は大野の谷と呼ばれていました。そして伊勢湾につながる川の下流が大野の港。江戸時代には多くの船があったことが記録されており、常滑街道の橋のあるあたりが一番栄えていたと言われています。戦国時代には「大野水軍」が拠点を置き、巧な操船技術によって伊勢湾の海上交通を掌握していました。これを束ねていたのが佐治氏。織田信長は1569年ごろから伊勢に軍を進めますが、その作戦遂行のために佐治氏と大野水軍の力が必要だったのです。妹を嫁がせてまで佐治氏を取り込もうとした理由は、その水軍力にあったのでしょう。後に秀吉がお江を嫁がせたのも同じような理由から。戦国時代大野の谷は、戦略上とても重要な場所だったのです。
7 Comments
Лепота!
伊勢志摩を平定したら、戦略上の意味は無くなるからでしょうかね。
その伊勢で、強力な九鬼水軍を引き込めたから影が薄くなっていそうです。
東は徳川の壁がありますから。
幕府以降は、西からの驚異を削ぐ意味で、休眠させていたのかな。(にしては下に反れ過ぎか)
局地的に見ると要所だったのでしょうが、日本単位で見ると辺境に過ぎませんね。
若い頃に愛知に長期いた頃、女の子誘って知多半島はいきましたが、流石に歴史モノには触れませんでした(笑
大野城も大草城も未踏の城址です。紹介有り難うございます。遺構を残置させたのは、徳川側として、豊臣への防御意識が大坂の陣/元和偃武まで続いたからなのでしょうか。
UPお疲れ様です。
大草城、立地が良いですね。西は海、南は川、東は谷(おそらく水田)と三方を守られていて、武事に拙い有楽斎とは思えない城地だと思います。
城の工事が遅かったのは有楽斎本人が織田家運営スタッフとして実務が多忙だったからでしょうが、有楽斎本人が「どうせ武事は下手なんだから、居城は形だけあればいい」などと思っていたのかもしれませんね。完成していれば立派な城になったと思うので残念w
ただ、未完成のままキレイに管理されていた先人に感謝々々。
次回も楽しみにしています。
この大草城を見て私がびっくりしたの丘の麓でなく丘の中腹それも頂上近くに水堀があった事です。黒鍬の技術力なのでしょうね。
動画越しに見てるだけでも、未完の城とはいえ立派な水堀と土塁ですね。
ぜひ現地に訪れてこの目で確かめたいものです!
伊藤です。知多の大草城は、自分のご先祖の初代村田(中村)権右衛門重政(1533~1588)普請してました。
嬉しいかったので、コメントを、入れました。