海軍兵学校では、誰でも参加できる無料ツアーが毎日行われています。
ツアーには必ず案内人がいるのですが、一人ではなく、複数人います。
それぞれ個性派ぞろいで、話す内容も違います。
15年くらい前に初めて参加したときも、それはそれは個性的な自衛官OBが案内してくれました。
中国・北朝鮮について「あいつら調子に乗ってるから、ガツンとやらなきゃダメだ!」と拳を突き上げていたのも、懐かしい思い出です。
2012年の案内人も、直球な言い方をする人で、参加者は聞き入っていました。
【江田島】「戦争はどんな汚い手を使っても勝たなきゃダメ!」「国連憲章で日本は三流国民!」「日本のものが盗られている!」海軍兵学校ツアー。自衛官OBの発言に息を呑む観衆……。拍手が巻き起こる!
今回は2017年のツアーで、こちらの案内人も、巷ではそこそこ有名人のようです。歯に衣着せぬ言い方をして、参加者を沸かせました。
普段、言いたいことも言えない自衛隊にあって、異質な存在といえるでしょうが、その分だけ痛快に感じます。
広島県は海自、日本海軍の聖地といえるぐらい、観光地が多いので、興味のある方はぜひ足を運んでください。
このチャンネルでも順次、紹介していきたいと思います。
撮影日:2017年8月27日
#自衛隊 #軍事 #海上自衛隊 #海自 #日本軍
#日本海軍 #海軍兵学校 #海軍 #広島県 #江田島
#太平洋戦争 #真珠湾攻撃 #戦艦大和 #戦艦
29 Comments
真夏でめっちゃ暑かったですが、話す内容も熱かったです!
いまもこの人が案内しているかは不明ですが、何度でも行きたい場所ですね~。
とても貴重な話し手だと思います。
終戦間際は粗製乱造でかなりレベル下がった
コメント失礼致します。
大東亜戦争で大活躍した私が大尊敬する菅野直中佐もこの場所で青春を送り、勉学や訓練に精を出していたんだな・・と思いながら拝見しました。
貴重な映像をありがとうございます。
呉市とこの江田島市の海軍兵学校は出来ることなら宿泊を兼ねて是非見学してほしいところです。
時代にもよりますが、
➀身体検査、
➁旧制中学校内申書による選考
③学術考査による選考
➃指定出頭地に於ける作文、面接
をパスしたものに「カイヘイゴウカク イインテウ」(海兵合格 委員長)という電報が届きます。委員長とは海軍教育局採用委員長の略称。
そして更に
⑤入校時身体検査がありました。
と言う厳重な選考方法なので俗に言う 東大より2倍難しい。などありますが戦前、戦中を通じ大変な超難関校であったことは間違いありません。
採用時の身体検査では、特に両眼裸眼で1.0以上なこともありここでどんなに学力があろうと落とされました。以下のものは海軍機関学校や経理学校を併願していれば視力はそこまで問われません。どちらも海軍三校と言われた有名校でした。
ですから海兵、海機、海経には○○期は自分と同じ同期生であり○○期相当ともいうクラスの繋がりがありました。
着校時の身体検査でも合格した油断でまさかの不合格者になった者もいます。そして海軍兵学校を受験する位の学力があれば他も併願するわけで陸士や旧制高等学校等も併願受験する者もいました。
入学するのは日本本土の旧制中学校だけでなく台湾、南樺太、朝鮮、満州等の外地の旧制中学校在校生(日本国籍)なら志願出来、実際に入学者もいました。
修業期間も長らく約3年が4年となり戦前、国際情勢が緊迫してくるとだんだん教育期間は戦中にかけて短縮されました。73期では、たったの2年4ヶ月で少尉候補生として送りださなければならないほどに切迫していました。それでも73期は「今、征なければ戦争は終わってしまう」とまで言って卒業していったのです。そして74期も繰り上げて20年4月に卒業となりました。
在校生の75〜77期は江田島だけでなく同じ江田島内の大原分校を始め岩国、舞鶴にもあり、江田島本校に負けるなを合い言葉に切磋琢磨したのです。
78期は長崎県針尾島(現ハウステンボス)の旧針尾海兵団に設置されましたが、本土空襲以外にも南九州での本土決戦が想定されることもあり、山口県防府市に移設され防府分校となりました。
75期〜78期の在校生達は約1万千人、ほぼ74期までの卒業生と同じです。しかし在校生は海軍士官にはなれなかったが、在校生であった誇りと生徒としての気概、体力、知見をもって戦後のあらゆる分野で活躍し戦災復興や国富の充実に努めました。
皆様は古今東西どの学校に入学し教育を受けてみたかったですか?と問われたらどう答えるでしょうか。
私は70数年前だろうが、現在に存続していたなら、迷わず答えます。
海軍兵学校生徒になりたかったです。そして海軍士官になりたかった。先輩達のあとに続きたかったと。元海自
ガイドさんの話術がすごくて最後まで見てしまいました
根本听不见,这么小声还想开军舰?!!重来!!!
懐かしい
防大より一般大卒が多いのか、でも偉くなるのは防大が多いよね、陸軍の幼年学校と中卒と同じだね😮
行きたい!ガイドさん話が上手い。
てか大和ってめちゃくちゃ大きな戦艦だったんだ!💡かっこいい
各中学で1位2位が兵学校や陸軍士官学校に行き、その中の成績優秀者が参謀本部や陸軍大学校に行く。
それらの集団が大本営…、優秀とは?(笑)になります。
官僚や潰れた大企業みても成績優秀者と実務の結果は一致しないのがよく分かる。
私と家内の一族は戦前から高学歴者(旧制高校→旧制官立大学レベル)が多いのですが、陸軍幼年学校・陸軍士官学校・海軍三校(兵学校・機関学校・経理学校)に行った人は一人もいません。なお「俺は陸軍幼年学校を受けたが落ちた」という人は3人いました。3人とも、その後は旧制高校→旧制官立大学のエリートコースに乗れましたので、陸軍幼年学校に行くのが如何に難しかったか想像できます。
ただの戦後生まれがエラそうに😄😄😄😄😄
オレも戦後生まれ😂😂😂
まぁ日の当たる海軍兵学校も良いけども、海軍特年兵も
取り上げてほしかった、
うちの亡くなった親爺も海軍特年兵の四期生、終戦間際に入隊してます、一期生二期生は十五、六歳で最前線で数多戦死してます、兵学校のエリートみたいに日の当たるとこではなく、日陰の存在です、戦艦大和では、将来有る士官候補生は、退艦させられてますが、親爺の先輩の特年兵達は十五、六歳でもそのままの配置で戦死してます‼️
懐かしい。呉出身です。小学生の頃、海上自衛隊呉教育隊の水泳教室に通っていました。桜の時期になると、みんなで江田島の幹部候補生学校へ花見に行きました。赤レンガの周りにキレイな桜が咲いていました。90年代のことです。
何方か?私のコメントに高評価ありがとうございます‼️
将来を担うべき兵学校出身の候補生は、将来の日本のために海上特攻隊の大和から退艦させられたのでしょうね、
十四歳で志願して、まだ幼くして海軍特別年少兵の一期生二期生で大和に対置に付いていた特別年少兵には将来の
日本のために成らない‼️と
海軍上層部は思ったのでしょうね‼️
江田島の参考資料館に死ぬ前に一度行きたかったので、この動画配信はとても嬉しいです。
配信ありがとうございました。
歴史の一端を垣間見た気がする。
何故だか泣けてきた。
とても貴重な映像をありがとうございます。
25:50 77期生 江田島で最後の卒業生?
昭和20年10月1日卒業の75期が最後の卒業生ですね。
76期77期は終戦時に終了証書が与えられています。
重箱の隅で申し訳ありませんが事実は事実なので悪しからず。
案内人の方が、説明しながら後ろ向き歩きされていらっしゃっることに、驚きと敬意を表します‼️
素晴らしい! 22:08の気を付け!ガイドに感動しました。40数年前高校時分に江田島でカッター訓練を受けた記憶が蘇りました。今は鬼籍に入ったS4生まれの父も旧制中学時代に前倒し?で海兵を受験したけど歯が立たんかった(笑)と言っていたなぁ
「ワシらは他人様の子供にここで死んでくれと頼めるよう教練を積んできた」と解説された時には感じるものがありました。
お疲れ様です。たまたまですがこの動画を見させて頂きました。ホントに説明上手いですね
私の兄が長いこと海上自衛隊にいましたのと江田島で若い時教官をしていましたので興味を持って見ました。
兄は現在82歳です呉にいます。ひょとして名前を言えば解るかもしれませんね。
その時江田島に訪ねて行ったのを思い出しました。これからもツアー案内頑張って下さい。
個人的な意見ですが、戦争をしない、させない抑止力の為軍備増強は当たりまえの話と思います
you tube動画からの情報では5月の連休中に何か大きな変化があるかもしれませんね。
僕が江田島を見学したのは30年以上前で現役自衛官の方が案内してくれました。
ガイド的なお話はなく先導していただいた感じでした、動画最後の建物は記憶にないです。
baka丸出し!
僕の亡くなった叔父さんは、伊号潜水艦の乗組員で、回天での特攻隊員で、特攻予定だったのが終戦により命拾いをして無事に戻って来ました。 叔父さんの回天での特攻予定日は、8月20日頃だったと聞きました。僕が小学6年頃だったので特攻の意味もよくわからなくて、、、、。今になってもっともっと詳しく聞いておけば良かったなと思うのですが、、、。小学生ではね、、。それにしてもこの案内人の方の個性あふれる案内についつい聞き入ってしまいました。お客さんを笑わせようとしてるサービス精神が素晴らしいですね。海軍愛の深さを感じました。 気合の入った 気をつけっ!! が最高でした。😀😀😀😀😀😀
私は、30年くらい前、ここを見学しました。はじめに案内のかたから、「ここは観光地ではありません、厳粛な気持ちで見学してください」と、言い渡されました。
案内人のおっちゃんの広島のアクセントが懐かしい~
私も撮影された2017年のお盆の時期に見学に行きました。動画と同じルートを当時の記憶を思い起こしながら拝見しました。
この動画のガイドの方とは違いましたが、その方も楽しく冗談を織り交ぜ、色々詳しく案内してくださったのを覚えています。
教育参考館。もい一度訪れてみたいです。
終戦時の在校生全部には東大に入れるほどの実力は無かったでしょうね。
兵学校が東大に並ぶ難関校と言われたのは平和時の200人ぐらいの定員の時代だから。
でも戦乱と学徒動員で高等教育を受けた大学出身者が大幅に減少したから、復興のために、たくさんの若者に高等教育を施すことは、国レベルで必要な措置だったと思います。
いかに昔は教育を重視していたかが分かると思います。