浜崎あゆみ

~2004年“浜崎あゆみ”の生きざま~
日本の歌姫…トップに登りつめた故にあった彼女の半生について
僕はちゃんと皆に再度知ってもらいたい。当然だけれど彼女にだって
世の中の25歳と変わらない横顔がある。それを知って欲しい。

スーパーテレビ情報最前線
「浜崎あゆみ…光と影 25歳の絶望と決断」より(2004)

浜崎あゆみと分かち合った5年間、まさかこんな日が訪れようとは思ってもいなかった。生まれ育った街を彼女自身が案内してくれるとは…

 『福岡にいるときは歌を唄うとは思っていなかったから…』

1999年 インタビュー当初、浜崎あゆみは
頂点に登りつめようとしていた。
    なぜ唄うのか…『居場所が欲しかったから』21歳の彼女は言った。

2001年 彼女は聴力を失いかけていた。
探しあてた居場所に傷だらけのあゆ。

2002年 それでも走り続けた彼女は2年連続でレコード大賞に輝いた。
     きらめきの代償に支払った犠牲は小さくは無かった。
     この頃から彼女と取材側との距離が遠くなり始めた。
     いや、距離を作ってしまったのは、他ならぬ取材側だったと
     後に彼女から指摘されることになる。
     人と人とが理解しあうのは、容易くは無い。
     その力強い瞳が光を失くしかけていた。
    
2003年 もどかしさを憶えながらも
取材側はほとんどカメラを向けなかった。

2004年 さまざまな誤解や思い込みは静かに解けていく瞬間が訪れた。

―――――翻弄された。擦れ違い続けた1579日。
       なのに浜崎あゆみの語りつくした心の中は
       切ないほどに真っ直ぐだった。

一生で一度になるかもしれないベストアルバムの事務所の決定。

ベストなのになぜ歌い直すのか。

今にして思うと、それは彼女のささやかな抵抗だったのかもしれない。
決して本位では無かったベスト盤の発売。
あゆはそのプロモーションに追われた。
発売時に主だった雑誌40種の表紙を全て自分の顔で飾る。
そう決めたのも彼女だった。
超過密スケジュールをぬって40種分の表紙撮影に望んだあゆは
まるで自分を虐めているようにさえ見えた。
ようやく探しあてた居場所に
彼女は違和感を憶え始めていたのではないだろうか。

スタッフには以前にも増して完璧を求めていた。

私達は妥協を許さないその姿を
ただ呆然と眺めていたような気がする。
スタジオを彼女の気迫が支配していた。

そして街中のマガジンスタンドを彼女が埋め尽くした。
勝手に消費してくれと言わんばかりのイメージの氾濫。

『それまでの自分にでケリをつけたい』

21歳の彼女は自分を浜崎あゆみという人間であると思っていた。
浜崎あゆみという一個人であり、人間であり、女であり。
という風に思っていた。
だが、そうではなくて彼女は自身を組織の中の一部であって、
商品であると解釈した。そうでないと納得いかなかった。
それで、終わりにしようと思った。
引退というかたちなのか、とにかく離れたかった。

ベストアルバムは400万枚を超える驚異的なヒットとなった。
売り上げにして120億円。
一部上場企業の株価まで動かすものであった。

もう逃れられないのなら、引き返すことが出来ないのであれば、
此処でとことん生きて、人間として生きてやれと思った。
組織と戦ってやると思ったという。
そしてあゆは適当に折り合いをつける道を選ばなかった。

半年後に発表した「Dearest」のPVでは、売れると同時に豹変した周囲に失望し、がんじがらめの組織から逃げ出す自分を描いている。これほどストレートな表現に当時の私達は気付かなかった。

訳知り顔の大人なら苦笑するかもしれない。
だが、あゆは訳知り顔の大人になるつもりなどなかったのだ。

辿り着いた居場所で戦わねばならなかった絶望の深さ。
彼女の原点ともなったあの歌を私達は思い出した。

「A Song for XX 」(←歌詞紹介!彼女の作詞を是非見て下さい!!)

2001年、彼女は福岡・大阪・名古屋・東京を巡る
4大ドームツアーに挑んだ。
総制作費27億円。予定動員数30万人以上。
当時、たった一人で4大ドーム全てを満席に出来るのは
彼女しかいないと言われていた。
けれど、あゆの戦いは抜き差しならない局面を迎えることになる。
無邪気な表情でリハーサル会場に現われたあゆ。
でもこの時、彼女の中で絶望と気負いが鬩ぎ合っていたとは…

リハーサルで、「A Song for」を何度も歌いなおす。
つかの間、途切れた歌声。異変が起き始めていた。
どこを歌ってるのかわからなくなってしまう。
何かが聞こえる、耳栓をしても治まらない。
あゆの突発性難聴の記憶が蘇る。

人間として生きようと決めながら。
あゆ、君は立ち止まろうとはしなかった。

叩きつけるような大音量の渦巻く舞台にあゆは立った。
医師は忠告したという。
あなたが、こんな生活続けていたら左耳が直るかどうかは保証できない。
リハーサルで音程がとれない、拭っていたのは汗ではなかった。
ステージにうずくまり、体を震わせていた。

コンサートスタッフの誰もが、あゆの体調を気遣っていた。

スタッフに手振りで詫びると彼女は舞台から消えた。
弱音を吐かないあゆの、そんな姿を初めてみた。

コンサート開場の2時間前、
耳の病気で平衡感覚が崩れてしまったせいか、
誤ってセット下に落下し、タンカーで病院に運ばれた。
スタッフの誰しもが無理と判断していた。
開場30分前に車椅子で現れたあゆ。
たとえ傷を負っても彼女は、ファン・スタッフを裏切れなかった。
左足の怪我は全治3週間、医師からは安静にと言われた。
2時間遅れでコンサートは開幕された。
痛み止めの1時間半、2時間を超えるのコンサートは
何事も無かったように行われた。

湧き上がる歓声を浴びて傷だらけの浜崎あゆみは輝き始めた。
会場を埋め尽くす3万人の中で、
あゆの左足が悲鳴をあげていることを知るものは一人もいない。
切なかった。これが君の居場所だと思うと、切なかった。

そして、ドームツアーを成功に終わらせた後、
彼女は左耳の聴力はほとんど失っていた。

その後、気がつけば、彼女に近づこうとしても近づけない、
見えない壁があった。

『上下左右の真っ白の壁。上下左右ももう無い。
 身動きの取れない所にいた。
 決して、だだっ広くて、ありとあらゆる望むものが其処にはあって、
 全てが美しくて、輝いてて、というのではない。』

気がつけば彼女は白く何も無い世界で身動きがとれずにいたという。
人々は、それを成功した者の、贅沢な悩みというかもしれない。
だが、頂点に立ったものだけが見てしまう、荒涼とした地平はきっとある。
誰も助けてはくれない、寒々とした荒地。
その荒地で、あゆはまたもや絶望を深めていたのだ。

結局、彼女は飾らない素顔を私達に見せ続けていたのではないか。

25歳までの彼女は、昔の自分の過去を許せなかった。
負い目みたいなものを感じて、過去を封印していた。
誰かに掘り返されるのは嫌だったという。

 ―――――私と一緒に福岡に行きましょう。

過去を封印していたあゆからの提案だった。

『真実は、一つでは無い。
  真実は受け止める人がそれぞれ感じるものだと。
   それがわかったとき自分は楽になった。
    だから過去を封印する理由は私にはもうないと。』

彼女は本気で私達と向き合おうとしている。
地元福岡にスタッフと共に行き、思い出の地を歩く姿がそう映る。
福岡の海岸で。病院の公園で。17~18歳の頃の出来事を彼女は語る。

彼女は今、彼女にしか出来ないやり方で、
自分と折り合いをつけたのかもしれない。
絶望も気負いも何処かに捨てて、
彼女はなんだかとても優しい眼差しをしていた。
それは懐かしい博多の屋台のせいばかりではないだろう。
こんな柔らかな素顔と向き合えるまでに君と私達の間には
5年の年月が掛かったのだ。
浜崎あゆみ25歳、擦れ違い続けた永い旅を
君の笑顔で終えられることが、私達にはたまらなく嬉しい。

《Sixxxx Sonobe》プロデュース

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