絶対に見返して下さい。災害大国日本の教訓。復興の違いを知れば、あなたの家族を守る方法がわかる🚨#防災 #防災グッズ #震災 #南海トラフ地震
あなたの防災30年前の常識で止まってい ませんか?その防災グッズ、その考え方実 は今のあなたを危険にさらすかもしれませ ん。災害大国、日本その復興の歴史には 私たちの生存率を分けるある決定的な違い が隠されていました。今日の動画では阪神 、淡路、東日トン、そして熊本3つの大 震災私たちに突きつけた教訓をたどり、 あなたの防災を明日本当に役立つ備へエ戸 アップデートします。 1995年1月17日午前5時46分、 近代的な大都市が一瞬にして瓦礫の山と 貸しました。阪神淡路時代震災は先後の 日本が経験したことのない市長家型地震 でした。テレビに移し出された鉄 コンクリートの高速道路が成り倒されて いる光景は日本のインフラは絶対に安全だ という安全神を根底から覆返すものでした 。この水の事態に対し国や行政の初動対応 は残念ながら困難を極めました。特に 浮き彫りになったのが海外からの支援 受け入れ体制の不です。直後から世界70 以上の国や地域から救助隊の派遣や物資の 提供といった温かい支援の申し入れが殺当 しました。しかし政府の受け入れ判断が 大幅に遅れてしまったのです。その背景に はそもそも政府の非常災害対策本部に外務 省が含まれておらず支援受け入れの窓口や 判断体制が不明確だったという制度的な 問題がありました。スイスやフランスの 救助隊がようやく現地入理できたのは発生 から数日後のことでした。生存率が 一著しくて低下するとされる72時間の壁 で我国一国と迫る中でのこの遅れはあまり にも大きな教訓を残しました。さらに全意 の支援が現場に届かないという現実も予定 します。海外から送られた医薬品が日本の 薬法との兼合いで受け入れられないケース が発生したのです。助かるはずの命を前に 制度の壁が立ちかる。そんな厳しい現実が そこにはありました。ここで1つ豆知識 です。72時間の壁という言葉はよく聞か れました。これは単なる時間制限ではあり ません。実はこの時間を超えると瓦礫の下 などで勢めになった方の生存率が急激に 低下するだけでなく助け出されたとしても 長時間体を圧迫されていたことによる クラッシュ症候軍という深刻な症状を発症 するリスクが高まる時間でもあるのです。 初動の迅速差がいかに多くの命を左右する かを示しています。そして震災からの 道のりの中で私たちは2つの重要な言葉を 学びました。復旧と復興です。復旧が壊れ たものを元通りに直すこと、つまり マイナスを0に戻す作業であるのに対し、 復興は単に元に戻すだけでなくより良い 最大に強い社会を想像するという0から プラスを生み出す質の変化を伴う概念です 。阪神時代震災ではこの復興という視点が 日本の災害対策市場で初めて強く意識さ れるようになりました。それ以前の災害 対策が主にインフラの整備薬格整理といっ たハード面に重点を置いていたのに対し この震災では市民生活の債権が最大の テーマとして浮かび上がったのです。 もちろんハード面の復旧は目覚ましいもの がありました。道路や公案といった インフラは国による6年間で総額5兆円を 超える。学大な再生出動もありわずかに3 年で脅異的な速さで復旧をげました。 しかしその裏側で地域経済や市民の暮らし の現実は非常に厳しいものでした。兵庫県 が発表した産業復興参加年計画の終了時点 で復興度は99.4%とされましたがこれ はあくまで全体の平均値です。業子や企業 規模による格差は大きく、特に地元の商店 街や中小企業の中には事業債権を諦めざる を得なかったペースも少なくありません でした。さらに皮肉なことに復興によって 新しく立てられたオフスビルは供給過剰と なり空出率が17%以上にまで上昇する などハード面の復旧と人々の生活感との間 に大きな帰りが生まれてしまったのです。 この経験は建物や道路を直すだけでは本当 の意味で町は元気にならないという大切な 教訓を私たちに教えてくれました。政府や 行政の対応が混乱する中、真っ暗な被災地 に起動の光を灯したのは全国から駆けつけ た市民1人1人の力でした。1995年は 後にボランティア元年と呼ばれるように なります。学生を中心に自発的に被災地へ 向かった人々の数はの延にも登りました。 彼らは炊き出しを行い、物資を運び、他の 中から思い出の品を探し、行政の手が回ら ない部分を埋める。まさに生命線とも 言える重要な役割を果たしたのです。 しかしこの善意の本は当時に大きな課題も 突きつけました。当時はボランティアを 受け入れる組織的な仕組みがほとんど存在 していませんでした。多くの自治体は突然 現れた膨大な数のボランティアをどう組織 し、どこへ派遣すれば良いのか分からず、 現場は混乱を極めました。ボランティア 自身も宿泊場所や食料は自分で確保する 自己完結電速であり被災値に負担をかけ ないための知識が不足しているケースも 見受けられました。この美しくも混沌とし た経験がその後の日本の災害対応を大きく 変えることになります。この震災を きっかけに災害対策基本法に初めて ボランティアに関する規定が盛り込まれ NPO法が制定されるなど市民の力を組織 的に生かすための制度整備が進む直接の きっかけとなったのです。ここで神戸の 復興にまつわる素敵な豆知識を1つ。神戸 の復興のシンボルは肺の中から蘇みえる 伝説のフェニックスです。これは単に町を 元通りにするだけでなく大を乗り越え、 より強く、より優しく生まれ変わるのだと いう市民の皆さんの手意が込められてい ます。神戸が私たちに教えてくれたのは 助けはすぐには来ないという厳しい現実度 。だからこそと手を取り合うという希望の 光でした。しかしこの教訓は次に日本を 早々を接する規模の災害の前ではまだ助賞 に過ぎなかったのです。次に明らかになっ たのは多くの命を救うはずの避難所見む。 これまで誰も想像しなかった新たな危険の 存在でした。 2011年3月11日午後2時46分。 地震津波そして原子力発電所事故という 世界でも累を見ない30歳が日本を襲い ました。被害はあまりにも後範囲及び被災 地の自治体調査やそこに務める職員の方々 自身が被災し行政機能が麻痺するという 深刻な事態に陥りました。これにより政府 は被害状況を正確に把握できない情報の ブラックホールの中で手探りの応急対策を 迫られたのです。通信インフラも各地で 寸断され、被災地からの情報が完全に 突然絶助けを求める声が届かず、どこで何 が起きているのか分からないまま、ただ 時間だけが過ぎていきました。このような 情報機器の中で誤った情報や根拠のない噂 が広がい、人々の不安をさらに煽るという 負の連鎖も発生してしまいました。阪神 淡路時代震災の教訓から国や自治体の応援 体制は以前より強化されていました。 しかし、あまりにも広域大な被害はその 想定をはるかにはかに超えていたのです。 ここで少し災害時の情報についてのお話 です。災害時には手間や不確かな情報が 流れやすくなります。例えば東日本大震災 の際には有外物質の雨が降るといった目も ない噂が拡散しました。不安な時ほど 私たちは情報を求めてしまいました。 発信元が確かではない情報に惑わされない 冷静さも自分自身を守るための大切な防災 スキルの1つと言えるでしょう。多くの命 を救った避難所。しかしその内部ではこれ まで見過ごされてきた2次的な人道機器が 静かに進行していました。特に深刻だった のが任さや高齢者障害を持つ方といった 災害時に特別な配慮を必要とする人々への 配慮の欠所です。当時の避難常園への意思 決定の側その多くが男性で占められてい ました。その結果女性特有のニースが悪意 なく過ごされる事態が多発したのです。 例えば生理用品やこつといった物資が不足 していても男性の運営スタッフには なかなか言い出しにくい。受入や着替えを したくてもプライベートな空間が確保され ていない。水や清掃といった負担が暗黙の うちに女性に集中してしまう。これらは 決して誰かの悪意から生じたものではあり ません。しかし、計画段階での視点の欠除 が被災した方々の人間としての尊厳を深く 傷つける結果を招いてしまったのです。 この痛ましい経験は国を大きく動かしまし た。災害対策基本法が大幅に改正され、 避難所における良好な生活環境の確保や 配慮が必要な方々への十分な配慮が法律上 の努力義務としてはっきりと明記される ことになりました。ただ安全な場所を確保 するだけではない。いかに人間としての 尊厳を保ちながら過ごせるか。東日本大 震災は防災計画における人権という視点の 重要性を私たちに強く強く突きつけたの です。東日本大震災ではボランティアの あり方も大きな進化を飛べました。8歳 直後は阪神淡路の時と同じように瓦礫の 徹底や泥出し滝出しといった目に見える 物理的な支援が活動の中心でした。しかし 被災された方々が避難所から仮説住宅へと 生活の場を移すにつれて支援に求められる ニーズは大きく変化していきます。先の 見えない生活への不安、慣れない土地での 孤立、そして津波で全てを失った深い心の 傷、ボランティア活動の視線上は物理的な 復旧作業から被災者の心によりそう生活 支援へと静かにシフトしていったのです。 仮説住宅での見の守りや訪問活動、住民 同士が交流するお茶会の開催、そして専門 家による心のケア。これらの活動は復興の 重要な柱である心の復興という概念を 生み出しました。特に専門性を持ったNP 行業の役割が際立ち、行政だけでは手の 届かないキやかで長期的な支援を展開し ました。助けとは単に物資を届けることで はない。記載した方が再び立ち上がり前を 向くまでの長い道の意にそっと寄り添う こと。ボランティア活動はより深くより 人間的な次元へと進化を遂げたのです。 岩手県然市には津波による壊滅的な被害の 中7万本あった松林のうち奇跡的に1本 だけが生き残った奇跡の1本末変わります 。残念ながらその後宴の影響でしてしまい ましたが、現在はモニュメントとして保存 処理が施され、東北の人々の不屈の精神と 希望の象徴として、今も多くの人々に勇気 を与え続けています。東日本の教訓は 私たちの心に深く刻まれました。復興とは 建物を立て直すことだけではない。人の心 と暮らしの尊厳を取り戻すことなのだと。 ではこの痛みを伴う学びをどうすれば未来 の力に変えられるのか。その答えは九州 熊本の地で全く新しい形の共同によって 示されることになります。 2016年4月熊本県を新ド7の入れ戸に 渡って襲いました。この未蔵の災害からの 復興で掲げられたのが想像的復興という コンセプトです。これは単に前と同じ状態 に戻すのではなく、この機会を捉えてより 安全でより活力があり、よりつがりの強い 地域社会を未来のために気づき上げると いう非常に前向きな考え方です。具体的に は単に道路を直し家を立て替えるだけでは なく、例えば克服された道路は災害時の スムーズな避難度や火災の炎症を防ぐ豪華 体としての機能も持つように設定されまし た。新たに整備される公園は兵事は人々の 恋いのが、そして友人が避難場所として 活用できるよう計画段階から考えられてい ました。復興計画には地域コミュニティの 核となるみんなの家の模や熊本のシンボル である熊本を単なる文化財としてだけで なく地域経済と人々の心の寄り所として 復旧させることが明確に盛り込まれたの です。これは物理的な安全性と経済、文化 、そしてコミュニティの健全性が切り離せ ないものであるという成熟した復興思想の 現れでした。熊本の災害対応で最も画期的 だったと言われるのは日の国会議と呼ば れる官民連携の仕組みです。これは8歳 直後から毎日のように開催された情報共有 会議で熊本県や市町村といった行政支援 活動を行うNPO、そして地域福祉の金め である社会福祉協議会が1つのテーブルを 囲んで議論を重ねました。この会議が過去 の災害で常に課題となっていたある問題を 解説しました。それは行政が持つ トップダウンの情報と支援団体が現場で 掴むボトムアップの情報の断絶です。会議 の場が場でNPOが指定避難所以外で中白 をしている方々の食料が不足しています。 この地域の高齢者世帯での支援はまだ届い ていませんといった。生の情報を報告する と行政は即座に対応策を検討し物資や人を 再配分することができました。阪神淡路の 混沌東日本の割構造の反省から生まれた この近密が官民年は迅速で柔軟かつ無駄の ない支援を実現する日本の災害大量の新た なモデルとなったのです。ここで豆知識 です。日の国とは熊本県の古い呼び名野名 です。その名の通り麻さという格下さんを 持つ熊本の情熱的で力強い県民性を表して いると言われています。まさにその名の 通り熱い思いを持った人々が立場を超えて 集まったのは日の国会議だったのですね。 熊本の復興は上からの計画だけでなく 地域民が死体となる。ボトムアップの アプローチも大きな特徴でした。復興 町づりのプロセスには女性や若者を含む 多様な住民が積極的に参加し、自分たちの 見合いの暮らしを自分たちの手でデザイン していったのです。これにより確実的な 復興ではなく、それぞれの地域のエキシア 文化、ニーズに即した血の通った コミュニティの再生が進められました。 さらに現代ならではのテクノロジーの活用 も進みました。過去の災害でボランティア のお受付は長打の列や手続きの半達さが 大きなボトルネックとなっていました。 熊本市ではボランティアの事前登録に熊本 アプリというスマートフォンを導入。これ により支援を希望する人はスマートフォン からスムーズに登録を済ませることができ 、運営側もどこでどんなガスが必要かと いうニーズとボランティアのマッチングを 効率的に行えるようになりました。これは 現代のツールを防災復興に生かす非常に 実践的な試みとして高く評価されています 。さてこれまでの話を1度整理してみ ましょう。神戸から熊本へ。この約20 年間で日本の災害対応は劇的に進化を取れ ました。神戸では行政に頼るだけでなく 市民1人1人が立ち上がる事象教助の力が 覚醒しました。東日本ではただ生き延びる だけでは不十分であり1人1人の尊厳を 守ることの重要性が深く認識されました。 として熊本では行政NPO市民が対当な パートナーとして連携する共同の仕組みが 確立されたのです。神戸のこの力の目覚め から東北の心への配慮、そして熊本の組織 的な共同え3つの災害を経て私たちは3つ の大きな飛躍を出ました。ではこれらの 教訓は私たちの防災にどのように 落とし込むことができるでしょうか?ここ からがこの動画で最も重要なパートです。 過去の教訓は未来の命を救うための設定数 です。ここからはあなたの備えを今日から アップデートするための3つのステックと 1つの重要なポイントをご紹介します。 避難所の困難の中で自分らしさを失って しまうことは災害そのものと同じくらい心 に大きなダメージを与えます。東日本の 避難所が私たちに突きつけた厳しい教訓は ただ生き残るだけでは不十分人間としての 尊厳を保つ備えが必要だということでした 。そこでステップ1です。あなたの備蓄品 に心の栄養を加えましょう。非常食や水は もちろん重要です。しかしそれらに加えて お菓子や幼い頃から使っている小物や スキンケア用品、好きな香りのハンド クリームといったものを入れてみて ください。これらは決して贅沢品ではあり ません。極限状態に置かれたあなたの心を 守い、あなたらしさを保つためのいわば心 の羊品なのです。 熊本の災害対応は最も迅速で効果的な助け が遠くの専門家ではなく、すぐそばにいる 臨人からもたらされることを証明しました 。と災害時、あなたの命をつぐ最初の ライフラインは行政ではなく、あなたの すぐそばにいる地域コミュニティの可能性 が高いのです。孤立は災害時における最も 知名的なリスクの1つとなります。 ステップにご近所との小さな約束を作り ましょう。大げさなものでなくて構いませ ん。もしもの時はまずお互いに声を かけ合いましょうね。とお隣さんと一言か 交わしておく。それだけでいざという時の 安心感が大きく変わります。離れて暮らす ご家族とは連絡が取れない時は最外ダイヤ ある171を使おう。もしはぐれたら集合 場所はまるまる公園にしようといった具体 的なルールを決めておくことが非常に重要 です。この小さな約束の1つ1つがあなた の地域における日の国会議と同じ命を救う ネットワークの役割を果たしてくれるの です。ちなみに最外言ダイアル171は 忘れていないと覚えることができます。 スマートフォンの充電が切れても講習電話 から利用できるという時に本当に頼りに なるサービスです。毎月1日と15日など に体験ができますので一度ご家族と試して みてはいかがでしょうか。 神戸の教訓は厳しくそして明確でした。 最後の72時間。あなたはたった1人で 戦わなければならないかもしれないという ことです。ボランティアと聞くと被災中へ 駆けつける特別な活動のように聞こえるか もしれません。しかし災害時にあなたが 最初に助けるべきは他の慣れでもない。 あなた自身とあなたの家族です。ステップ さん、家の中の最初のボランティアになり ましょう。それは例えば地震の揺れで狂器 溶かす可能性のあるタンスヤホンなの壁に しっかりと固定することです。それは停電 が復旧した際に発生する通電加を防ぐため に避難する前に自宅のブレーカーの位置を 確認し必ず落としてから家を出ることです 。それは割れた窓ガラスに手をしないよう 防止フィルムを貼っておくことです。これ こそがあなたと家族の命を守る重要なのに 誰にでもできる最初のボランティア活動な のです。 そして最も重要なポイントが1つあります 。この30年間で起きた最大の変化は防災 の考え方が助けを持つもから助け合うため にまず自ら備えるものへと大きく転換した ことです。あなたの備えはあなた1人の ためだけではありません。あなたが無事で あることがあなたの家族を助けては地域 社会全体の負担を減らすことにつがります 。あなたが備えること、それ自体が未来の 誰かを救う最も確実な社会貢献なのです。 阪神淡路大震災で学んだ事女教助の精神 東日本大震災で通感した1人1人の尊厳の 大切さ、そして熊本自身で実現した官民 年齢による共同の後から災害の度に私たち は傷つき多くのものを失いました。しかし その痛みの中から必ず学び少しずつですが 強くなってきました。現代の防災とはただ 生き延びるための技術ではありません。 いかに人間らしくお互いに支え合いながら 困難を乗り越えるかという先人たちが30 年という最をかけて積み上げてきた知恵の 決勝なのです。次の災害は私たちが準備 できているかなんて待ってはくれません。 でも今日からできることは必ずあります。 この動画でご紹介したことまずは1つで 構いません。今すぐご自宅の備蓄袋に あなただけのお守りになるような心の栄養 を1つ加えてみてください。あるいは離れ て暮らすご家族に災害の連絡方法決めて おかないと1LINEやメールを送ってみ てください。その小さな一歩があなたと あなたの大切な人の明日を守ります。この チャンネルではこれからもあなたの命を 守る知識をお届けしていきます。是非 チャンネル登録をして今日の動画をあなた の大切な方へシェアすることも忘れないで くださいね。最後までご視聴いただき ありがとうございました。そなあれば嬉い なし。また次回お会いしましょう。
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↓参考文献↓
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内閣府 防災情報のページ「阪神・淡路大震災教訓情報資料集【04】諸外国からの救援」
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/hanshin_awaji/data/detail/1-4-4.html
NRI「阪神・淡路大震災30年:真の経済復興は成し遂げられたか」
https://www.nri.com/jp/media/column/kiuchi/20250115.html
神戸大学名誉教授・兵庫県立大学防災教育研究センター「阪神・淡路大震災の復興と東日本大震災の復興
」
https://boukakiki.or.jp/crisis_management/H27-4-1.pdf
阪神淡路大震災から15年を経て~わかったこと,変わったこと~阪神淡路大震災からの復興
https://www.jsnds.org/ssk/ssk_29_3_303.pdf
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↓目次↓
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0:00 OP
0:33 阪神・淡路大震災(1995年)自助・共助の覚醒
6:44 東日本大震災(2011年)尊厳という名の教訓
11:54 熊本地震(2016年)協同が生んだ新たなレジリエンス
16:42 行動計画:30年間の教訓を実践する
20:53 まとめ

1 Comment
阪神淡路大震災で被災(家が傾いて全壊)しました。震災当時、小学生でしたが震災直後は父方の祖父、同居していた母方の祖父の親戚がすぐに来てくれました。父方の祖父は県内の被害があまりなかった別の市に住んでいて震災当日におにぎりとカップ麺をバイクに乗せて持って来てくれました。母方の祖父の親戚は土木関係の会社をしている方で県外から部下の方をつれて来てくれて私の家と近所の家の屋根にブルーシートをかけてくれてくれました。私が住む地域は南海トラフ地震では震度6の揺れがきます。次に大きな地震が来たら祖母の介護もあるので在宅避難をするつもりで今から備蓄しています。また、近所が高齢者ばかりなので災害が起こったら家族の無事を確認後、近所の人の様子も見に行こうと思ってます。また、能登半島地震をきっかけでInstagramで我が家でしている防災対策や備蓄の情報などをたまに投稿しています。