今も原爆の怖ろしさを後世に伝えている原爆ドーム Oilstreet, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で
(髙城 千昭:TBS『世界遺産』元ディレクター・プロデューサー)
登録にアメリカは不支持、中国は賛否保留
1945年8月6日午前1時45分、日本列島のはるか南2400km、太平洋に浮かぶテニアン島のエイブル滑走路から1機の爆撃機が発進した。“リトル・ボーイ”と名付けられた原子爆弾を搭載したB-29「エノラ・ゲイ」である。
片道6時間半のフライトの後、広島市に差しかかったエノラ・ゲイは、元安川と本川が分流して中州をつくる地点に架かるT字型をした“相生橋”を投下の目印にする。独特な形は、機長にとって上空からでもハッキリ確認できたのだろう。
そして午前8時15分、地上から580mの所で原子爆弾は炸裂した。凄まじい爆風と4000度に達する熱線は、街を一瞬にして焼き払い、瓦礫が散らばる廃墟と化した。中州はにぎやかな繁華街だったが、跡形もなく消えた。
ところが爆心地から160mほどの至近距離にある“広島県産業奨励館”は、崩れかけた赤レンガの外壁の上に鉄骨ドームをのせて、凛と佇んでいたのだ。館内にいた約30人は全員即死したと推定されるが、衝撃波をほぼ真上から受けたために倒壊を免れたという。相生橋のたもと、元安川沿いにそびえ立つ産業奨励館は一面の焼け野原でよく目立ち、いつしか「原爆ドーム」と呼ばれるようになった。
こうした“あの日の事実”を、原爆ドームは時を止めたまま存在し続けることで語っている。世界遺産としての正式名称は「広島平和記念碑(原爆ドーム)」(登録1996年、文化遺産)であり、「世界平和を目指す活動」や「核兵器の廃絶を希求する」シンボルとして、世界でも他に例のない建造物として評価された。
戦争や内乱・人種差別など、人類が犯した過ちを伝え、二度と繰り返さないよう記憶にとどめる物件を、日本では一般的に「負の遺産」と呼ぶ。しかし世界遺産条約には、「負の遺産」という定義もなければ、登録のカテゴリーもない。
特に近現代の“負の歴史”に関わるモノは、国家間の争いを招きかねず、国際協調を重んじるユネスコの主旨に合わないのだ。
では、「負の遺産」の典型である「アウシュヴィッツ・ビルケナウ:ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940-1945)」(登録1979年、文化遺産)」は、どのような理念で登録に結びついたのか? それは「アウシュヴィッツは戦争とは関係ない」というもの。歴史的な事件を糾弾するのでなく、特定の国・民族、宗教にこだわらず――集団化した「人間の残酷な側面を示す証拠である」(世界遺産年報2011から抄録)とした。
世界遺産の登録は全会一致が原則だが、原爆ドームの際は、アメリカが不支持・中国は賛否を保留する異例の事態だった。アメリカは「第二次世界大戦を終結させるために、核兵器を使用する状況を迎えたこと」、その歴史的観点が欠けているとした。中国は「侵略や虐殺などのつらい歴史の事実を否定しつづける人が、少数ながら存在する。そのような人たちに悪用されないとも限らない」という理由だ。
それ以外の委員国(21カ国。採決になった場合、3分の2の賛成が必要)が賛成して登録は成った。けれど評価の対象から原爆投下の悲惨さを外し、核のない平和な世の中をつくるための“記念碑”とする、未来志向の位置付けになった。ユネスコ的には、原爆ドームは戦争遺産でない。
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