自分が住む街のすぐ足下(もと)にあるかもしれない。
80年前の戦争によって残された不発弾が、いまも全国各地で見つかっています。
あなたが観光で訪れたことがある“あの場所”でも…。
なぜいま、爆発が?
(取材班)
NHKスペシャル「不発弾処理 足下(もと)に潜む“脅威”」
6月22日(日) 午後9:00~放送予定
6月29日(日) 午後9:49までNHKプラスで配信
いまでも1800件超
この1年、ニュースで何度も伝えられている「不発弾」。
去年、宮崎空港では、旅客機が通過したわずか2分後に突然、不発弾が爆発。
ことし6月には沖縄にある不発弾の一時保管庫で爆発があり、自衛隊員が負傷しました。
全国で行われた不発弾処理は、1年間に1852件、重量にして総計34.9トン。なかでも突出し、半分以上を占めているのが、80年前、激しい地上戦の場となった沖縄です。
沖縄・緊迫の処理現場
「空き地、砲弾、1発ですね」
「工事現場、砲弾のようなものが2つ」陸上自衛隊那覇駐屯地に拠点を置く「第101不発弾処理隊」。隊長以下、20人ほどの部隊です。
戦争から80年がたつ今も、この部隊は平均して1日1件以上のペースで緊急出動要請を受けます。
「緊急車両、中央を通ります。ご注意ください」
この日向かったのは、沖縄本島南部の糸満市。
不発弾処理隊隊員
「糸満市は昔、艦砲射撃を受けた場所で、いまでも砲弾がたくさん出ます。80年前の沖縄戦で一帯は激戦地でしたから」
要請を受けたのは、住宅地にある工事現場でした。
「離れてください、離れてください」
到着した隊員たちは現場にいる警察官や取材カメラに対し、不発弾から離れるよう促します。
工事作業員によると、重機で土を掘り起こした際にすくい取った土の中から突然、砲弾が落ちてきたといいます。
「識別結果はアメリカ製の105ミリ砲弾。回収しますね」
この不発弾は起爆装置にあたる「信管」と呼ばれる部品の状態から、すぐに爆発する恐れがないと確認されました。別の場所で一時保管し、後日、爆破するなどしてまとめて処分されるといいます。
多いときは1日に6~7件見つかる不発弾。住宅地、庭先、畑、道ばた。沖縄では、私たちの暮らしのすぐそばに潜んでいます。
あなたが知っている“あの場所”も…
背景にあるのは“80年前の激戦地だった”という歴史です。
太平洋戦争末期、地上戦の場とされた沖縄では、日米の戦闘が3か月以上続けられました。その戦闘に住民が巻き込まれ、県民の4人に1人が犠牲となりました。
雨のように降り注いだ砲弾や爆弾は“鉄の暴風”とも呼ばれました。
当時、アメリカ軍が撃ち込んだ弾薬は総重量20万トン。そのうち1万トンが不発弾として地中に残ったと推定されています。
陸上自衛隊がこれまでに処理したのは4万件以上にのぼります。
今回、NHKはその詳細なデータを独自に入手。どこで何件見つかったのか、地図上に示しました。
赤い棒グラフが示しているのは処理された場所と件数。
▼ジンベエザメなどが有名な水族館がある本島北部。
▼ビーチやショッピングで人気の本島西海岸。
▼特に多いのが、本島南部。
那覇市の首里城や国際通り、それに糸満市の平和祈念公園。いずれも近くで不発弾が発見・処理されています。
こうした場所にはある特徴が…。実は多く見つかっているのは、旧日本軍が軍事拠点を構えていた場所の周辺。
80年前、軍の意向で本土を守るための“時間稼ぎ”の場とされた沖縄。不発弾の痕跡はその事実を物語っています。
不発弾はいまでも危ない?
沖縄本島の東にある離島・南大東島。
この日処理されるのは、中に爆薬が残っていて、島の外に運び出すのが危険と判断された不発弾です。
弾の内部は密閉されているため、中に詰められた爆薬は容器の外側部分が破損していないかぎり、80年前の状態を維持しています。
不発弾は人けのない海岸沿いに移し爆破処理が行われました。
「最終確認よし」
「点火!」
ドーンという体に響く激しい爆発音が周辺に響き渡り、煙が高く立ち上ります。
「点火成功!」
爆破後、きちんと処理されたのかを確認しに向かった隊員に同行しました。
すると、生々しい光景が。砲弾の破片は、鉄が裂けて鋭利な形状になり、周辺に散乱していたのです。
破片の大きさは長さおよそ10センチ、厚さ1センチメートルほど。少しでも触れると、皮膚が切れそうなくらい鋭利なものでした。
隊員に聞くと、この砲弾はもともと、細かく飛散するように設計されているといいます。
第101不発弾処理隊 岩瀬亘隊長
「この破片は、ブーメランのような感じでくるくる回転しながら飛び散るように作られていて非常に危険です」
「もしこれが自分に当たったら…」
戦争に使われる兵器の“恐怖”を感じた瞬間でした。
“人生が全部奪われた”
沖縄に残された不発弾は、たびたび爆発事故を引き起こしてきました。これまでに命を落とした人は、戦後、分かっているだけでも700人以上にのぼります。
宮城清さん、80歳。小学生のとき、海岸で煙を出しているものを見つけ、そばに駆け寄りました。
一緒にいた友だちが、煙を消そうと木の棒で触った時、突然、爆発が起きたといいます。
宮城清さん
「とっさに目をかばおうとして、右腕で目元を覆ったんです。その代わりに顔と腕のやけどがひどくて、ケロイドになりました。病院で包帯を外した時、鏡に映る自分は、焼け焦げた肉の真ん中に目が2つだけあるような状態。それから毎日、やけどで生皮が剥がれていたんです。これって地獄ですよ」
宮城さんを襲った不発弾は、特殊な弾の「黄リン弾」。爆発すると強烈な炎と煙を発し、黄リンが直接、皮膚に触れると焼けただれます。沖縄戦では住民が身を隠していた洞窟などに投げ入れられました。
やけどのあとが顔や体の広範囲に残り、宮城さんは将来の夢さえも諦めざるをえなくなったといいます。
宮城清さん
「自分より年下の子が私の顔を見て『怖い』って泣いて帰るんです。私は社会科が得意だったので、先生になろうかと思っていたのですが、人に接する仕事が向かないと考えたんですね。不発弾の爆発事故で人生が全部奪われた」
今回、処理隊を取材する中でも、煙を出した状態の「黄リン弾」が何度も見つかりました。
空気に触れると自然発火し燃え尽きるまで消えず、処理するにはガスバーナーで焼き尽くすしかないといいます。
人間を吹き飛ばし、傷つけ、燃やす。さまざまな兵器が80年前の地上戦で使われ、いまも私たちの足下に潜んでいます。
住宅街から大型爆弾
住宅地のど真ん中で大型の不発弾が見つかりました。
現場は旧日本軍が地下に司令部を置いていた那覇市の首里城の近くです。
下水道工事中に見つかったアメリカ製の250キロ爆弾。戦時中に空から投下されたとみられます。
起爆装置にあたる「信管」がついたままで、すぐに回収はできません。
第101不発弾処理隊 岩瀬亘隊長
「仮にこの場所で爆発したら、破片が飛んだり爆風が出たり、半径700メートルから1000メートルぐらいに被害を及ぼす威力があります」
避難の対象となったのは住民などおよそ1400人。
処理にあたった隊員は、避難を呼びかけてからおよそ3時間かけて「信管」を直接、手で抜き取って処理しました。
第101不発弾処理隊 岩瀬亘隊長
「安全な生活を取り戻すためには小さい歩みかもしれませんが、ひとつひとつの不発弾処理を確実に進めていかないと戦後処理は終わらない」
住宅密集地のため、万が一の事故に備えて、どのような安全対策をとり、住民に避難を呼びかけるのか、複雑な検討が必要となった不発弾処理。
この1発の不発弾の処理にかかった費用はおよそ2000万円で、このうちおよそ4分の1が那覇市の負担となりました。
いま不発弾の被害に遭ったら…
いま日本で不発弾の被害に遭ったら、その責任は誰がとるのか。実は明確に定められていません。それが大きな議論となった事故があります。
51年前、那覇市の幼稚園のすぐそばで起きた「聖マタイ幼稚園不発弾爆発事故」。3歳の女の子を含む4人が亡くなり、34人が重軽傷を負いました。
爆発したのは、沖縄戦当時、日本軍が埋めた改造地雷でした。
被害者たちは「戦争を引き起こした国に責任がある」として補償を求めたのです。
しかし国は直接的な責任を認めず“見舞金(みまいきん)”で決着させました。「償う」という意味での“補償”はしなかったのです。
当時、那覇市の職員として被害者の救済に奔走し、後に副市長を務めた男性が当時の心境を語りました。
那覇市職員(当時) 玉城正一さん
「僕らは“補償”を要求した。でも国は『補償はできない』と言って“見舞金”の支払いというだけに終わったんです。沖縄戦であんなに苦労して、あんなに必死で生き抜いた県民の皆さんに対して国は『責任が無い』と。これは言っちゃいけない」
事故の責任論の背景にあったのは…
なぜ国は責任を認めようとしなかったのか。今回、国と沖縄側との8か月に及ぶ交渉の経緯を記した手記が初めて見つかりました。
手記を残したのは、事故を担当した沖縄県の消防防災課の課長だった大仲進さん。
「早めに結論出す」(沖縄開発庁・局長)
「年内支払いを至上目的とする」(沖縄開発庁・参事官)
事故の補償を巡る議論の中で、国は一刻も早く見舞金を支払うことが、沖縄の被害者のためだと繰り返していました。
ただ手記を読み進めていくと、国はその期限の目安として、沖縄とは遠く離れた場所での裁判を持ち出していたことが分かったのです。
記されていたのは「12月18日 新島判決 それ以前に」
裁判は東京・新島で起きた不発弾による死亡事故について争われていたものでした。
発言は“その判決までに決着をつけたい”というもの。
その真意はどこにあるのか。今回、当時の総理府、法務省、沖縄開発庁など事故に関わった官僚たちを探し、全国各地で当事者たちへの取材を重ねました。
その結果、手記に書かれていた、まさにその発言をした人が静岡県に住んでいることを突き止めたのです。
取材に応じたのは、沖縄開発庁・沖縄総合事務局で事故の担当課長を務めていた櫻井溥さん、90歳。沖縄と新島、2つの事故が影響しあう事態を避けたかったのだと明かしました。
元沖縄開発庁 櫻井溥さん
「不発弾事故の責任を追及することによって、これが国の責任だとなると、最終的に国の“戦争責任”についてまで議論が波及するおそれが、国としてはあったと思います。“見舞金”で出したのと国家賠償法を適用して国が責任を認めたのとでは、意味合いが全然違います。沖縄での不発弾事故の責任を認めるということは、国としては非常に取りづらい選択肢だったと思うんです。“悪うございました”と謝罪するわけですから」
結局、新島裁判の判決の3週間前、国は沖縄の被害者に「見舞金」を支払うことを政治判断で決定。
不発弾による被害が国家賠償の対象になるのか。
国はいまに至るまで明言することを避け続けています。
処理には“あと100年”
不発弾処理隊への取材を続けたこの1年。この場所が“多くの命が失われた戦場だった”と肌で感じる現場に、幾度も立ち会ってきました。
この日、南部の糸満市で行われた処理。雑木林の奥から見つかったのは、旧日本軍製の安全装置がついたままの手りゅう弾でした。
ただ見つかったのは、これだけではありませんでした。遺骨収集にあたっていた団体が見つけた全身の遺骨。その傍らで手りゅう弾が見つかったといいます。
沖縄戦では命を落とした住民の6割近くが終盤の6月以降に集中しているとみられています。日本軍がこの一帯に撤退してきたことで、多くの住民が戦闘に巻き込まれ犠牲が一気に拡大したのです。
不発弾で顔や腕に大やけどを負った宮城清さんも、この糸満市で戦争によって父親を亡くしていました。父親は宮城さんが生まれる直前、戦場に駆り出され艦砲射撃を受けたといいます。
戦争で父を失い、そして戦後は不発弾によって癒えない傷を負った宮城さん。
“やりきれない思いを抱えているのは、自分だけではない”と、涙をにじませながら、ゆっくりと私たちに語りました。
宮城清さん
「不発弾の事故に遭って、自分よりもひどい思いをした人のことを、私、知っているんです。沖縄には戦争が残した不発弾によって苦しんでいる人たちがまだたくさんいるんですよ。沖縄は、日本は、そのままでいいんですか」
ひとたび戦争が起きれば、何世代にも渡って傷を増やし続ける“負の遺産”、不発弾。
処理にはあと100年かかると言われています。
(6月22日 「NHKスペシャル」で放送予定)
沖縄放送局記者
喜多祐介
2007年入局
2回目の沖縄勤務中
安全保障や沖縄戦などを取材
報道局社会番組部ディレクター
三宅佑治
2010年入局
岡山局、沖縄局で勤務し現所属
沖縄放送局ディレクター
金武孝幸
2011年入局
札幌局、大阪局で勤務し沖縄局
沖縄放送局記者
石川拳太朗
2018年入局
広島局を経て沖縄局
戦争について継続して取材
沖縄放送局記者
小林桃子
2019年入局
山形局を経て沖縄局
沖縄で警察司法を担当
WACOCA: People, Life, Style.