【独自】曽我ひとみさん証言 横田めぐみさんと交わした会話と安否不明の母への想い【サンデーステーション】(2024年6月16日)

若い人にラジ問題を知ってほしいと地元の 小学校や中学校で公演を行っている蘇 ささて皆さんここに移っているのは誰 でしょうかかる さんはいじゃあ私はどちらでしょう 赤ちゃん赤ちゃんの方そうですはいその 通りですよくわかりましたね ありがとう受け取って ください今まで以上に救出活動に力を入れ たいと4月から市の拉致被害者対策がかり で勤務しています 1978年19歳で北朝鮮に致された さん実は北朝鮮で一緒に暮らした横田恵 さんと故郷を歌っていたと言い ますのない山の方にちょっとこう散歩に あのたり にありまして大きな声だとやっぱり指導に あのバレてしまうのでうん小さい声です けどうん切ないですね切ないですね本当 に家族にも会いたいですしね本当にこの ままずっとここなのかと かどうしたら日本に帰れるんだろうねって うん 拉致された翌日北朝鮮の港に到着したひ さんその数日後 です移動させられたぴょんやんの招待所に 恵さんがいまし た玄関先で私を迎えてくれましてま私の妹 と年齢がこう同じぐらいなので どうしてこんな可愛い子がこんなところ に1人でいるんだろうていう疑問がすごく あの大きかったのを覚えて ますその日の夜2人はこっそり日本語で こんな会話をかわしたと言い ますその膝の毛がどうした のの近くで男の人に捕まって無理やり連れ て来られた の実は私も家の近くの曲がり角で後ろから 襲われた の2人とも同じだ ねひさんの9ヶ月ほど前同じ新潟から部活 の帰り道に13歳で拉致された恵 さんさんすごくあの絵を描くのがすごく 上手だったのであのま私の こう手をこう射影してくれたりしてええ はいとっても上手だったんです へえ勉強もすごくできて あの私があのたくさん挑戦後を教えて もらいましたもちろんあの年下ですけども うん19歳と13 歳姉妹のように支え合いながら8ヶ月ほど 一緒に暮らしましたが別れが訪れ ます恵さんは拉致された時に持っていた 赤いバッグをひさんに手渡しまし た私だと思って持っていってて あの言ってくれまし て本当にすごく嬉しかったんですけどま ここであのお別れしなきゃいけないって いうあの悲しい気持ちもありました しできて嬉しいです初めて2002年 北朝鮮はひさんら5人が 生存恵さんが8人が死亡と発表します あ日本に帰るんだったら あの絶対恵さんもいるよねてま私はそう あの思い込んでいまし てでもま行ったらいなかっ た空港にいたのは恵さんの娘の運 さん実はこの時ひさんがお母さんはと 尋ねるとウギさんはいるよと答えたと言い ますその時はそういうニュアンスでうん 言ってたんですねそうですね うんそこにはいないわけですからうんうん 別の場所にいるよっていうようないるよ ですよねうん うん私はそう感じましたけどうん 恵さんは絶対に生きていると確信している と言い ますひさんには恵さんとかわした忘れられ ない会話があり ます梅さんは私のお母さんはすごくいつも 香水の匂いがしてていい匂いだったんだと か私には双子の弟がいて とっても可愛いんだよって私大好きなんだ ていやうちとは違うなってすぐに思っ ちゃって私の母はやっぱりあの 仕事柄あまみ出てあの仕事をしているので 帰ってきてもその油の匂いしかあのして なかったの で1978年 と一緒に近所の商店に買い物に出かけ3人 の男に襲われた母親の美義 さんそれ以来消息がえているの です当時46歳だった母親の美義 さん朝から農作業をして昼は工場で 油まみれになって働き 夜中まで内食を するそんな働き者の母だったと言い ます多分小学校の56年生ぐらいだったか なと今記憶しているんですけど友達が うんすごくあの学校で新しいものを着てき てあ羨ましいなってすごく思ってお母さん がこう隠してあったお金を勝手にあの 持ち出しまし てひさんはこの時買ったセーターを今でも 大切に保管してい ますその時ばかりは母親がなぜか怒ら なくっ て瞳が1人でこうてきたんだなって自分が あの買ってあげられない から観念なって言うんですけどごめん なさいっていうことなんですけどうん母親 の方が謝ってき て母親も泣いてる し私もその母親の顔を見てあの私も一緒に なって泣い て母美義さんの行方について拉致の実行犯 と見られる女工作員キみす容疑者はこう 語っています お母さんはサに返し た元気で暮らしているから心配しなくて いいしかし24年ぶりに帰国した日本に 1番会いたかった母美さんの姿はありませ んでし たとても会いたかったです 北朝鮮は美義さんはミニ教だとして拉致 そのものを認めていませ ん一緒 に同じ時に同じ時間に同じ場所でと拉致を されて うん北に入ってきてないっていうことは うん 一体どういうことなんだろうってなんか 反対に私が聞きたいような気持ちですけど 今 はいひさんの元には母美義さんの生存に つながる可能性がある情報も寄せられてい ます千村さんの話だともしかしたら お母さんが書いたメモかなみたいなま話を されていたんですがもしあであればあの 元気でいる証拠になるので会って欲しい よう なでも違うのかなとか うんジャーナリストの有田よ氏が入手した 拉致被害者の聞き取り内容をまとめた 文書そこには子と書かれた手紙に関する村 さんの証が記載されてい ます中理にいた頃三面鏡の引き出しの中 から手紙が出てきたことが あるおそらく誰かに見て欲しいと考えて そこに入れたの だろう手紙には子50 代70年代に革命ののため佐から挑戦に来 た工場で務めてい た主人は交通事故で亡くなっ た26歳の娘がいて結婚しているなどと 日本語で書かれていたと言い ます蘇美さんと年齢など違っている点も ありますがサドという地名や工場で働いて いた点夫が交通事故にあった点などが一致 しています また北朝鮮に拉致された疑いが排除でき ない特定思想者のリストおよそ470人の 中にクという名前の人はいませ ん千村福恵さんは招待所の世話がかりから その女性は直前まで生活していた人でその 後韓国人師と結婚したと聞いたと言い ます北朝鮮に向けて家族のメッセージを 届けるラジオ放送 潮風ひさんは母美義さんにこう呼びかけ まし た 母ちゃん今どうしています か元気でいます かもうすぐ は桜の季節になり ますいつもいつも優しかった 母ちゃん1日も 早くサに帰ってきて ください私たちはいつまでもいつまでも 待っています まあの日長の交渉というのは長くま進展は していませんけれどもまそんな中でですね え韓国のメディアが報じたのがえ日長の 関係者が先月モンゴルで接触したという ものそしてそこには日本の政治家も出席し たこういう報道でしたでモンゴルといえば ですねえ横田恵さんの娘運さんと横田し さん恵さんが面するなどま北朝鮮との交渉 の場になってきたまそういった経緯もあり ますえテレビ朝日政治部山本デスクはえ 実際に先月政治家らがですね極秘訪問した という情報は複数から聞こえてくるとで この政治家らについてはモンゴルの有力者 に接触の場をついでもらった可能性もある がこれは外務省などを通じた正規ルートで はないということなんですねで一方同時期 にある政府関係者もえモンゴルを訪問した ということが分かったというんですでこの 2つの動きがですねどうリンクしているの かというのははっきりしないんですが さらなる局面打開につながるかが重要だと まこう言いますがま太田さんその日長の 接触なんですけれども情報としてどんな レベルという風に考えますかはいあの実は あの別の韓国メディアが去年ほぼ1年前な んですけれども日常接触これシンガポール であったって報じたんですけど 前は本政府はこれ確に否定したんですね報 ですねしかし今回なんですけれもあの政府 関係者取材をしますとですね前回の報道 ほど出てらめではないっていう風に私に 説明したんですねつまりモンゴルを舞台に した何らかの接触があったそう考えても いいかもしれないんですねただ一方でこの ま人物を含みます複数の日本政府関係者は この時期に政府の立場で原の国会議員が 接触することはありえないそう断言をして ましたねあないああでその一方総理がです ね8月にモンゴル訪問をま検討中だという ことでまこのタイミングでの報道も気に なるんですがおっしゃる通りですねあの実 はこれ岸田政権に対して北朝鮮が心理戦 情報戦を仕掛けているそういった中で今回 のこの韓国市の報道があったかもしれない んですよねあのそこで大事なはですねまず 相手の意すなわち北朝鮮中枢の意を 読み取ることそして何より被害者の方ご 家族のためにですね具体的な成果これを 残すことまそのための外交を一刻も早く 進めてほしいと思いますテレビ朝日夜の ニュース番組をスマホでもテバで生配信し ています

日本と北朝鮮が5月、秘密裏に接触したと報じられましたが、拉致問題に進展はあるのでしょうか。今回、拉致被害者の曽我ひとみさんが取材に応じ、「横田めぐみさんは絶対に生きている」と証言しました。

■独自・横田めぐみさんと交わした“忘れられない会話”
若い人に拉致問題を知ってほしいと地元の小学校や中学校で講演を行っている曽我ひとみさん。
(拉致被害者 曽我ひとみさん(65))「ここに写っているのは誰でしょうか?分かる人」
(児童)「曽我ひとみさん」
「じゃあ私はどちらでしょう?」
(児童)「赤ちゃん」
「そうです、その通りです。よくわかりましたね、ありがとう」
今まで以上に救出活動に力を入れたいと4月から市の拉致被害者対策係で勤務しています。
1978年、19歳で北朝鮮に拉致された曽我ひとみさん。実は、北朝鮮で一緒に暮らした横田めぐみさんと「ふるさと」を歌っていたといいます。
(曽我ひとみさん)「人気のない山の方に散歩に出かけたりすることもたまにありまして、大きな声だとやっぱり指導員にバレてしまうので小さい声ですけど」
Q.切ないですね
「切ないですね本当に。家族にも会いたいですしね、このままずっとここなのかとか、どうしたら日本に帰れるんだろうねって」
拉致された翌日、北朝鮮の港に到着したひとみさん。その数日後です。移動させられた平壌の招待所にめぐみさんがいました。
(曽我ひとみさん)「玄関先で私を迎えてくれまして、私の妹と年齢が同じくらいなので、どうしてこんなかわいい子が、こんなところに1人でいるんだろうという疑問がすごく大きかったのを覚えてます」
その日の夜、2人はこっそり日本語でこんな会話を交わしたといいます。
(横田めぐみさん)「その膝のけがどうしたの?」
(曽我ひとみさん)「家の近くで男の人に捕まって無理やり連れて来られたの」
(横田めぐみさん)「実は私も…家の近くの曲がり角で後ろから襲われたの」
(曽我ひとみさん)「2人とも同じだね」
ひとみさんの9カ月ほど前、同じ新潟から部活の帰り道に13歳で拉致されためぐみさん。
(曽我ひとみさん)「めぐみさんは絵を描くのがすごく上手だったので、私の手を写生してくれたりして、とっても上手だったんです。勉強もすごくできて、私がたくさん朝鮮語を教えてもらいました。もちろん年下ですけども」
19歳と13歳…姉妹のように支え合いながら8カ月ほど一緒に暮らしましたが、別れが訪れます。めぐみさんは拉致された時に持っていた赤いバッグをひとみさんに手渡しました。
(曽我ひとみさん)「『私だと思って持っていって』って言ってくれまして、本当にすごく嬉しかったんですけど、ここでお別れしなきゃいけないという悲しい気持ちもありましたし」

2002年、北朝鮮はひとみさんら5人が「生存」、めぐみさんら8人が「死亡」と発表します。
(曽我ひとみさん)「日本に帰るんだったら『絶対めぐみさんもいるよね』って私はそう思い込んでいまして、でも行ったらいなかった」
空港にいたのは、めぐみさんの娘のウンギョンさん。実はこのときひとみさんが「お母さんは?」と尋ねるとウンギョンさんは「いるよ」と答えたといいます。
Q.生きているニュアンスで言っていた?
「そうですね」
Q.「別の場所にいるよ」というような「いるよ」?
「私はそう感じましたけれど」
めぐみさんは「絶対に生きている」と確信しているといいます。ひとみさんには、めぐみさんと交わした忘れられない会話があります。
(曽我ひとみさん)「めぐみさんは『私のお母さんはいつも香水の匂いがしていて、いい匂いだったんだ』とか、『私には双子の弟がいてとってもかわいいんだよ、大好きなんだ』って話をしたりとか、うちとは違うなって思っちゃって。私の母はやっぱり仕事柄、油まみれで仕事をしているので、帰ってきても油の匂いしかしていなかったので」

■曽我ひとみさん 安否不明の母とセーターの思い出
1978年、ひとみさんと一緒に近所の商店に買い物に出かけ、3人の男に襲われた母親のミヨシさん。それ以来、消息が途絶えているのです。当時、46歳だった母親のミヨシさん。朝から農作業をして、昼は工場で油まみれになって働き、夜中まで内職をする…そんな働き者の母だったといいます。
(曽我ひとみさん)「たぶん小学校の5、6年生くらいだったかなと記憶しているんですけど、友達がすごく学校で新しいセーターを着てきて、うらやましいなってすごく思って。お母さんが隠してあったお金を勝手に持ち出しまして」
ひとみさんはこの時買ったセーターを今でも大切に保管しています。
(曽我ひとみさん)「その時ばかりは母親がなぜか怒らなくて、『ひとみが1人で買うてきたんだな』って、『自分が買ってあげられないからかんねんな(ごめんなさい)』と言うんですけど、母親の方が謝ってきて、母親も泣いているし、私もその母親の顔を見て一緒に泣いて」
母・ミヨシさんの行方について拉致の実行犯とみられる女工作員キム・ミョンスク容疑者はこう語っています。
(キム・ミョンスク容疑者)「お母さんは佐渡に帰した。元気で暮らしているから心配しなくていい」
しかし、24年ぶりに帰国した日本に一番会いたかった母・ミヨシさんの姿はありませんでした。
(曽我ひとみさん)「とても会いたかったです」
北朝鮮は、「ミヨシさんは未入境」だとして拉致そのものを認めていません。
(曽我ひとみさん)「一緒に、同じ時間に、同じ場所で拉致をされて、北に入ってきていないっていうことは一体どういうことなんだろうって、反対に私が聞きたいような気持ですけど…」
ひとみさんのもとには母・ミヨシさんの生存につながる可能性がある情報も寄せられています。
(曽我ひとみさん)「(帰国した)地村さんの話だと、『もしかしたらお母さんが書いたメモかな』みたいな話をされていたんですが、もし母であれば元気でいる証拠になるので、そうであってほしいような、でも違うのかなとか」
ジャーナリストの有田芳生氏が入手した拉致被害者の聞き取り内容をまとめた文書。そこには「久我良子(or ヨシ子)」と書かれた手紙に関する地村さん夫妻の証言が記載されています。
(地村富貴惠さんの証言)「忠龍里(招待所)にいた頃、三面鏡の引き出しの中から手紙が出てきたことがある。おそらく誰かに見て欲しいと考えてそこに入れたのだろう」
手紙には、「久我ヨシ子(または良子)50代」
「70年代に革命のため佐渡から朝鮮に来た」
「〇〇〇(※カタカナ)工場で勤めていた」
「主人は交通事故で亡くなった」
「26歳の娘がいて結婚している」
などと日本語で書かれていたといいます。曽我ミヨシさんと年齢など違っている点もありますが、「佐渡」という地名や「工場」で働いていた点、夫が「交通事故」にあった点などが一致しています。また、北朝鮮に拉致された疑いが排除できない特定失踪者のリスト約470人の中に、「久我ヨシ子」という名前の人はいません。

■「かあちゃん、今どうしていますか?」

地村富貴恵さんは招待所の世話係から「その女性は直前まで生活していた人でその後、韓国人漁師と結婚した」と聞いたといいます。
北朝鮮に向けて家族のメッセージを届けるラジオ放送「しおかぜ」。ひとみさんは、母・ミヨシさんにこう呼びかけました。
(曽我ひとみさん)「かあちゃん、今どうしていますか?元気でいますか?もうすぐ佐渡は桜の季節になります。いつも、いつも優しかったかあちゃん。1日も早く佐渡に帰ってきてください。私たちはいつまでも、いつまでも待っています」

6月16日『サンデーステーション』より
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp

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