メンバーシップの紹介動画はこちら↓ https://www.youtube.com/channel/UCa7TxBQHNrYEDTluarnr_mg/join 「貴族院①」はこちら↓ 【BGM】 OtoLogic「In That Mood」 【参照文献】 陸軍将校の社会教育史(上)(下):広田照幸、ちくま学芸文庫、2021年7月10日 日本の近代9 逆説の軍隊:戸部良一、中央公論社、1998年12月1日 YouTubeあきた号アップロードカメラ付き携帯電話コミュニティチャンネルノモンハン事件ビデオユーチューブゆっくりゆっくり解説下剋上人物解説共有動画動画機能付き携帯電話昭和昭和天皇杉野真実歴史解説満州事変無料石原莞爾社會部部長軍事辻政信 46 Comments @user-gb6dk8el5t 3年 ago 今の自衛隊は曹から幹部になるのかなり簡単になったと聞いたけどそんだけ人員不足なのかな @rs237osaka2 3年 ago 私の祖父のお兄様が軍曹でした。マリアナ島で戦死されて居ます。祖父は海軍でした… @52364 3年 ago 米軍の日本軍評、日本軍最優秀は下士官、兵卒。下級将校、高級将校、将官と上に行くほど無能者が多くなるのはどういうことか?理解出来ないとある。 @73moto 3年 ago 陸上自衛隊もバブル期に入隊する人が少なかったので入り易さや陸曹になるのを緩くして人員増大を図ったがバブル崩壊で入隊する人が増えてしまい、陸曹が余剰気味になってバブル期に陸曹になった人でデブや能力が低い陸曹を依願退職に追い込むリストラをして就職氷河期で大卒で2等陸士から入った人を陸曹にさせたが、アベノミクス等で景気が回復したので自衛隊に入る人が減ったので自衛隊は人員不足 @kpo1870 3年 ago 伍長になれれば、総統も間近です(笑)。 @user-iy3sr8mt6j 3年 ago 家の親戚の叔父さんが言ってたけど伍長と軍曹では年金の開きが大きいと言ってましたね @user-lm3pd4xc9s 3年 ago ワタシの祖父は陸軍伍長で憲兵で配属される寸前で終戦を迎えたって祖母から聞いた事が有ります。 @mamoruyamada6365 3年 ago どうも、帝国陸軍下士官への否定的見解が目立つような気がするな。戦後、日本軍を評して米軍の幹部が「日本軍は将軍はダメだったが、下士官兵は世界一だった」と。日本軍下士官への正しい評価もたのむぜ。俺のじいさん(元軍曹)も同じようなこと言ってたっけ。 @user-wn8rb4jc6b 3年 ago 曽祖父が海軍兵曹長として第1次大戦で地中海で戦った。元は小学校の教員だったが給料が安過ぎて親の負債を返済出来ないので海軍に入ったそう。結局、赴任先の台湾の澎湖島で風土病に罹患して父が産まれて3年後に病死した。遺言で「息子は決して海軍に入れるな」と遺したので父は陸軍士官学校に入った。ちなみに大東亜戦争で活躍して有名になった英雄には兵卒〜下士官〜士官になった人が多い。例として、香港攻略戦の若林(東一)大尉や拉孟防衛戦の英雄、金光大佐。 @asaichban9842 3年 ago 「人の嫌がる軍隊に志願していくバカもいる」 と唄われてましたね大正~日中戦争の戦間期に 兵から下士官に行くのは 貧農の次男三男坊が多かったようですね 故郷に戻ってもロクな仕事はないし軍隊という一応公務員で衣食住が保障されてますから それに軍隊で下士官だと兵舎内では兵に対しては威張っていられるただ定年が早く(自衛隊もそうだが)結婚も遅いので 定年後苦労したようですね それでも努力して准尉(事務長みたいな存在)、将校になった人もいる押しなべてそういう人は優秀だったそうです、家にカネがあれば専門学校・大学に進んでいた そういうと映画「拝啓天皇陛下様」を思いますねウチの祖父は伍長勤務上等兵に抜擢されたくなくて(自作農でリンゴ園やってたため)手抜いていて 見事に除隊、それが功を奏して 部隊はノモンハンに行ったが除隊してたので行くことはなかったので助かったそうです @user-cd2eb9ul1l 3年 ago 説明がたるい! @user-nj5ce9dq3e 3年 ago 士官学校を卒業しないと尉官になれないし、陸軍大学を卒業しないと将校になれない。いくら軍人として有能であっても、学歴がないと軍曹止まり。それでアタマでっかちで机上の空論ばかりの上層部が出来上がった。日露戦争で勝った日本だが(この時は学歴でなく実戦経験の上層部ばかりだった)、陸大を創設したのがその後の日本敗戦の原因の一つ。 @yukibebe7 3年 ago 日本人の気質として現場で職人として活躍する下士官の能力が高いのは必然だと思う。教導団から将校への道を閉ざしたために高級軍人の官僚化が進んだのだろうな。料亭通いの高級将校なんて恥以外のなにものでもない @user-zs8bm7gn6j 3年 ago リチャードギアの士官学校では下士官が教官だった。アメリカは下士官を尊重し日本は下士官を侮蔑した。日本軍士官はいつも「特務フゼイや下士官ゴトキの意見など聞いてられっか」と、押さえ込んで握り潰したので日本は戦争に負けた。 @user-cu5tq9hd7w 3年 ago 東宝特撮映画の本多猪四郎監督は、大卒だったが徴兵されて、226事件後に下士官推薦を受けた人で、終戦時には曹長まで昇進した。特撮映画の撮影の際に防衛庁が協力的だったのは、本多監督の経歴がものをいった可能性が高い。 @user-cp9vl8ym4u 3年 ago 曾祖父は、日露戦争の時騎馬少尉としてロシアと戦いました @H036 3年 ago 帝国陸軍創成期に、下士官・兵から士官に任官出来たのは、後年だったら士官学校等に入学出来る人材が、その制度が無かったので、兵として入隊したからでは?創成期の将校達は、平民が徴兵された鎮台さんで無く、士族で生まれた時から武士として育てられ、餓鬼の頃から人斬り包丁を腰に差し、藩学校学校で教育を受けて居たはず。生まれや育ちが違うと、大変ですよ。家族は、もっと大変。戦後の幹部官舎ですら、女学校出の元お嬢様や学習院出の元お姫様が、貫禄が付いた小母ちゃんとなり、何故かワル餓鬼程可愛がる、ほぼ周囲と隔離された浮世離れした空間でしたよ。 @masao750 3年 ago 第二次世界大戦では米英の将軍、ドイツの将校、日本の下士官、イワン(ソ連)の兵隊が優秀と言われます。米英のトップはずる賢い。ドイツは兵器の設計、運用も合理的に考える。日本の下士官は職人気質で、練度も高い。イワンの兵隊は命令通りに動くので都合よいが人的には大損害となる。各国の国民性を表す。 @user-db9ld3wb2p 3年 ago 将官クラスが無能(特に参謀)下士官が二流から一流の間兵士が超一流 士官学校でマニュアル通りに動くように育成してしまう方針の結果でしょうか。現場の人は命かかってるから、どうしたら勝って生き残れるか知恵を絞りますよね。 @kiko8343 3年 ago 爺ちゃん伍長で軽機関銃だったって。軽機関銃と言っても重かったみたい。終戦で復員船で帰る時、たくさんの軍曹伍長 下の兵隊に海に放りこまれたらしい。部下をいじめた下士官 哀れな結末。 @masao750 3年 ago ヒトラーも第一次世界大戦では伍長だった。 @user-nr6ov9vl7u 3年 ago 下士官は、職業軍人ではないですよね @pinksaturns 3年 ago 小野田寛郎氏は徴兵から中野学校で中尉だったから、特殊な才能を見込まれた人は末期でも例外的な昇進もあったのでは。 @user-sv8dm9lt6y 3年 ago 場をお借りします>妻へのメイルぐらいでビビるなよお前らの社則では洗面台行ったら共和党でトイレ行ったら共和党で2階のカーテン閉めたら共和党なんだろ?笑笑笑 @user-sv8dm9lt6y 3年 ago という罵倒がひたすら飛んでくるからよろしく笑笑笑 @kuchadarmank6110 3年 ago 漫画だけど、「のらくろ」は2等兵から陸士出て大尉で退官したんだからすごいのか。 @user-sn6im8fo3e 3年 ago 自分の高祖父が元陸軍軍医大尉で中国戦線に身を置いていたらしく、終戦間際のソ連からの撤退戦が一番受け持つ負傷者がたくさんいて治療が間に合わずに息を引き取る人が多く精神的に苦労が絶えなかったと祖父から聞いたことがあります。 @user-sv8dm9lt6y 3年 ago 何度でも言ってやる政治はやらねえ私を馬鹿にしてきた奴らの為に働くとかとんでもねえな @user-he4tc2ff7s 3年 ago どうりで太平洋戦争時、下士官が優秀だと敵から評価されたことがわかった❗🤔と、同時に「年功序列」が弊害を生んで行くのですね。😥だから、あの戦争は大日本帝国軍の自己崩壊だと私は見ている。いかに強力な新兵器を出しても負ける結果になるのです‼️それを扱う人間に問題があったから‼️🤪 @user-em7lw6yw2b 3年 ago ゆっくり解説は真に受けちゃ駄目だなぁ…。自分で調べよう。歴史学科は国立国会図書館に行け。 @user-ll2uy3rd4y 3年 ago 質問です。 投稿日は毎週金曜日から水曜日に変わったのですか? @user-pw6xg8rq8i 3年 ago 農民から上等兵までいけたらたいしたもので😊 @borderhopper3296 3年 ago >下士官が陸軍士官学校を受験→その形で将校になったのが、若林東一。WW2での香港攻略戦時に中尉で、将校斥候として、英軍陣地(ジンドリンカーズライン)を偵察。防御の不備を見つけて、独断専行で突撃。それが日本軍の総攻撃に繋がって、1日で敵側戦線を崩壊させたというもの。1943年、ガダルカナル島戦で戦死。最終階級は大尉。 @borderhopper3296 3年 ago >予備役編入→旧軍でのクビ(退職)を意味する言葉。 @borderhopper3296 3年 ago >下士官学校の志願者が順調に減少→言い方が冷笑的で草。 @user-gq7ph4vw5b 3年 ago それでも、終戦までの日本陸軍には、特務士官という昇進制度が残っていて下士官から少尉任官の道があった。終戦間際に、根本中将の旅団と対峙したソ連軍には、初老の中尉がいたはずだ。最低でも大卒でないと士官になれない米軍将兵は、羨ましいと言ってたそうな。((丸))辻権作少将はどうしたんだっけ? @moipa808 3年 ago ご先祖様日本政府はまた戦争の惨禍を引き起こそうとしています。どうかご加護を @TokyoNew_ 2年 ago お疲れ様ですw @user-tc4it4xe4g 2年 ago 差し詰め。これが陸自な高等工科学校のモデルか @kkkdd-yh4kp 2年 ago 勉学ばかりしているから(机の上の作戦計画しか立てられない)…今のロシア軍と一緒だよ。 @u-taka9588 2年 ago 今自衛隊では士官三尉になどなりたくなく、仕事キツくなり給料もほとんど変わらん。曹長でいい @user-dn3uo4bb6m 2年 ago 頭デッカチの使えない奴を増やすだけだね @user-cr6ss8tq7l 2年 ago 私の祖父は学生時代に入隊、大陸に渡り教育隊→金陵士官学校へ。半年後には曹長だったみたいです。昭和20年8月(軍歴証明参照) @user-xf5kv3vb1m 2年 ago 1920年より少尉候補生制度が成立し、成績優秀な下士官は試験により陸軍士官学校に入学する事が出来るようになった。1連隊で1,2名だったらしい。 @user-gi1uq2st8b 2年 ago 昔、秋田の実家に陸自の制服着て帰省しました、親父の兄弟から、下士官に成ったか❗と散々呑まされました😅親父の兄弟でも、親父までが軍歴有りでしたから、三等陸曹は?どんな?階級だ?と聴かれましたから、親父が昔で言う、陸軍伍長と応えたら。親父の兄達は、試験受けて下士官❗後は士官の受験資格出来るまで頑張れ❗でした~ @sunami808 2年 ago 現在の自衛隊の方が人事制度としては、まだ公平性が高いと思います。高卒陸士から定年は幹部でしたから
@73moto 3年 ago 陸上自衛隊もバブル期に入隊する人が少なかったので入り易さや陸曹になるのを緩くして人員増大を図ったがバブル崩壊で入隊する人が増えてしまい、陸曹が余剰気味になってバブル期に陸曹になった人でデブや能力が低い陸曹を依願退職に追い込むリストラをして就職氷河期で大卒で2等陸士から入った人を陸曹にさせたが、アベノミクス等で景気が回復したので自衛隊に入る人が減ったので自衛隊は人員不足
@mamoruyamada6365 3年 ago どうも、帝国陸軍下士官への否定的見解が目立つような気がするな。戦後、日本軍を評して米軍の幹部が「日本軍は将軍はダメだったが、下士官兵は世界一だった」と。日本軍下士官への正しい評価もたのむぜ。俺のじいさん(元軍曹)も同じようなこと言ってたっけ。
@user-wn8rb4jc6b 3年 ago 曽祖父が海軍兵曹長として第1次大戦で地中海で戦った。元は小学校の教員だったが給料が安過ぎて親の負債を返済出来ないので海軍に入ったそう。結局、赴任先の台湾の澎湖島で風土病に罹患して父が産まれて3年後に病死した。遺言で「息子は決して海軍に入れるな」と遺したので父は陸軍士官学校に入った。ちなみに大東亜戦争で活躍して有名になった英雄には兵卒〜下士官〜士官になった人が多い。例として、香港攻略戦の若林(東一)大尉や拉孟防衛戦の英雄、金光大佐。
@asaichban9842 3年 ago 「人の嫌がる軍隊に志願していくバカもいる」 と唄われてましたね大正~日中戦争の戦間期に 兵から下士官に行くのは 貧農の次男三男坊が多かったようですね 故郷に戻ってもロクな仕事はないし軍隊という一応公務員で衣食住が保障されてますから それに軍隊で下士官だと兵舎内では兵に対しては威張っていられるただ定年が早く(自衛隊もそうだが)結婚も遅いので 定年後苦労したようですね それでも努力して准尉(事務長みたいな存在)、将校になった人もいる押しなべてそういう人は優秀だったそうです、家にカネがあれば専門学校・大学に進んでいた そういうと映画「拝啓天皇陛下様」を思いますねウチの祖父は伍長勤務上等兵に抜擢されたくなくて(自作農でリンゴ園やってたため)手抜いていて 見事に除隊、それが功を奏して 部隊はノモンハンに行ったが除隊してたので行くことはなかったので助かったそうです
@user-nj5ce9dq3e 3年 ago 士官学校を卒業しないと尉官になれないし、陸軍大学を卒業しないと将校になれない。いくら軍人として有能であっても、学歴がないと軍曹止まり。それでアタマでっかちで机上の空論ばかりの上層部が出来上がった。日露戦争で勝った日本だが(この時は学歴でなく実戦経験の上層部ばかりだった)、陸大を創設したのがその後の日本敗戦の原因の一つ。
@yukibebe7 3年 ago 日本人の気質として現場で職人として活躍する下士官の能力が高いのは必然だと思う。教導団から将校への道を閉ざしたために高級軍人の官僚化が進んだのだろうな。料亭通いの高級将校なんて恥以外のなにものでもない
@user-zs8bm7gn6j 3年 ago リチャードギアの士官学校では下士官が教官だった。アメリカは下士官を尊重し日本は下士官を侮蔑した。日本軍士官はいつも「特務フゼイや下士官ゴトキの意見など聞いてられっか」と、押さえ込んで握り潰したので日本は戦争に負けた。
@user-cu5tq9hd7w 3年 ago 東宝特撮映画の本多猪四郎監督は、大卒だったが徴兵されて、226事件後に下士官推薦を受けた人で、終戦時には曹長まで昇進した。特撮映画の撮影の際に防衛庁が協力的だったのは、本多監督の経歴がものをいった可能性が高い。
@H036 3年 ago 帝国陸軍創成期に、下士官・兵から士官に任官出来たのは、後年だったら士官学校等に入学出来る人材が、その制度が無かったので、兵として入隊したからでは?創成期の将校達は、平民が徴兵された鎮台さんで無く、士族で生まれた時から武士として育てられ、餓鬼の頃から人斬り包丁を腰に差し、藩学校学校で教育を受けて居たはず。生まれや育ちが違うと、大変ですよ。家族は、もっと大変。戦後の幹部官舎ですら、女学校出の元お嬢様や学習院出の元お姫様が、貫禄が付いた小母ちゃんとなり、何故かワル餓鬼程可愛がる、ほぼ周囲と隔離された浮世離れした空間でしたよ。
@masao750 3年 ago 第二次世界大戦では米英の将軍、ドイツの将校、日本の下士官、イワン(ソ連)の兵隊が優秀と言われます。米英のトップはずる賢い。ドイツは兵器の設計、運用も合理的に考える。日本の下士官は職人気質で、練度も高い。イワンの兵隊は命令通りに動くので都合よいが人的には大損害となる。各国の国民性を表す。
@user-db9ld3wb2p 3年 ago 将官クラスが無能(特に参謀)下士官が二流から一流の間兵士が超一流 士官学校でマニュアル通りに動くように育成してしまう方針の結果でしょうか。現場の人は命かかってるから、どうしたら勝って生き残れるか知恵を絞りますよね。
@kiko8343 3年 ago 爺ちゃん伍長で軽機関銃だったって。軽機関銃と言っても重かったみたい。終戦で復員船で帰る時、たくさんの軍曹伍長 下の兵隊に海に放りこまれたらしい。部下をいじめた下士官 哀れな結末。
@user-sn6im8fo3e 3年 ago 自分の高祖父が元陸軍軍医大尉で中国戦線に身を置いていたらしく、終戦間際のソ連からの撤退戦が一番受け持つ負傷者がたくさんいて治療が間に合わずに息を引き取る人が多く精神的に苦労が絶えなかったと祖父から聞いたことがあります。
@user-he4tc2ff7s 3年 ago どうりで太平洋戦争時、下士官が優秀だと敵から評価されたことがわかった❗🤔と、同時に「年功序列」が弊害を生んで行くのですね。😥だから、あの戦争は大日本帝国軍の自己崩壊だと私は見ている。いかに強力な新兵器を出しても負ける結果になるのです‼️それを扱う人間に問題があったから‼️🤪
@borderhopper3296 3年 ago >下士官が陸軍士官学校を受験→その形で将校になったのが、若林東一。WW2での香港攻略戦時に中尉で、将校斥候として、英軍陣地(ジンドリンカーズライン)を偵察。防御の不備を見つけて、独断専行で突撃。それが日本軍の総攻撃に繋がって、1日で敵側戦線を崩壊させたというもの。1943年、ガダルカナル島戦で戦死。最終階級は大尉。
@user-gq7ph4vw5b 3年 ago それでも、終戦までの日本陸軍には、特務士官という昇進制度が残っていて下士官から少尉任官の道があった。終戦間際に、根本中将の旅団と対峙したソ連軍には、初老の中尉がいたはずだ。最低でも大卒でないと士官になれない米軍将兵は、羨ましいと言ってたそうな。((丸))辻権作少将はどうしたんだっけ?
@user-gi1uq2st8b 2年 ago 昔、秋田の実家に陸自の制服着て帰省しました、親父の兄弟から、下士官に成ったか❗と散々呑まされました😅親父の兄弟でも、親父までが軍歴有りでしたから、三等陸曹は?どんな?階級だ?と聴かれましたから、親父が昔で言う、陸軍伍長と応えたら。親父の兄達は、試験受けて下士官❗後は士官の受験資格出来るまで頑張れ❗でした~
46 Comments
今の自衛隊は曹から幹部になるのかなり簡単になったと聞いたけどそんだけ人員不足なのかな
私の祖父のお兄様が軍曹でした。
マリアナ島で戦死されて居ます。
祖父は海軍でした…
米軍の日本軍評、日本軍最優秀は下士官、兵卒。下級将校、高級将校、将官と上に行くほど無能者が多くなるのはどういうことか?理解出来ないとある。
陸上自衛隊もバブル期に入隊する人が少なかったので入り易さや陸曹になるのを緩くして人員増大を図ったがバブル崩壊で入隊する人が増えてしまい、陸曹が余剰気味になってバブル期に陸曹になった人でデブや能力が低い陸曹を依願退職に追い込むリストラをして就職氷河期で大卒で2等陸士から入った人を陸曹にさせたが、アベノミクス等で景気が回復したので自衛隊に入る人が減ったので自衛隊は人員不足
伍長になれれば、総統も間近です(笑)。
家の親戚の叔父さんが言ってたけど伍長と軍曹では年金の開きが大きいと言ってましたね
ワタシの祖父は陸軍伍長で憲兵で配属される寸前で終戦を迎えたって祖母から聞いた事が有ります。
どうも、帝国陸軍下士官への否定的見解が目立つような気がするな。戦後、日本軍を評して米軍の幹部が「日本軍は将軍はダメだったが、下士官兵は世界一だった」と。日本軍下士官への正しい評価もたのむぜ。俺のじいさん(元軍曹)も同じようなこと言ってたっけ。
曽祖父が海軍兵曹長として第1次大戦で地中海で戦った。
元は小学校の教員だったが給料が安過ぎて親の負債を返済出来ないので海軍に入ったそう。
結局、赴任先の台湾の澎湖島で風土病に罹患して父が産まれて3年後に病死した。
遺言で「息子は決して海軍に入れるな」と遺したので父は陸軍士官学校に入った。
ちなみに大東亜戦争で活躍して有名になった英雄には兵卒〜下士官〜士官になった人が多い。
例として、香港攻略戦の若林(東一)大尉や拉孟防衛戦の英雄、金光大佐。
「人の嫌がる軍隊に志願していくバカもいる」 と唄われてましたね
大正~日中戦争の戦間期に 兵から下士官に行くのは 貧農の次男三男坊が多かったようですね 故郷に戻ってもロクな仕事はないし
軍隊という一応公務員で衣食住が保障されてますから それに軍隊で下士官だと兵舎内では兵に対しては威張っていられる
ただ定年が早く(自衛隊もそうだが)結婚も遅いので 定年後苦労したようですね それでも努力して准尉(事務長みたいな存在)、将校になった人もいる
押しなべてそういう人は優秀だったそうです、家にカネがあれば専門学校・大学に進んでいた そういうと映画「拝啓天皇陛下様」を思いますね
ウチの祖父は伍長勤務上等兵に抜擢されたくなくて(自作農でリンゴ園やってたため)手抜いていて 見事に除隊、それが功を奏して 部隊はノモンハンに行ったが
除隊してたので行くことはなかったので助かったそうです
説明がたるい!
士官学校を卒業しないと尉官になれないし、陸軍大学を卒業しないと将校になれない。いくら軍人として有能であっても、学歴がないと軍曹止まり。それでアタマでっかちで机上の空論ばかりの上層部が出来上がった。日露戦争で勝った日本だが(この時は学歴でなく実戦経験の上層部ばかりだった)、陸大を創設したのがその後の日本敗戦の原因の一つ。
日本人の気質として現場で職人として活躍する下士官の能力が高いのは必然だと思う。
教導団から将校への道を閉ざしたために高級軍人の官僚化が進んだのだろうな。
料亭通いの高級将校なんて恥以外のなにものでもない
リチャードギアの士官学校では下士官が教官だった。アメリカは下士官を尊重し日本は下士官を侮蔑した。日本軍士官はいつも「特務フゼイや下士官ゴトキの意見など聞いてられっか」と、押さえ込んで握り潰したので日本は戦争に負けた。
東宝特撮映画の本多猪四郎監督は、大卒だったが徴兵されて、226事件後に下士官推薦を受けた人で、終戦時には曹長まで昇進した。特撮映画の撮影の際に防衛庁が協力的だったのは、本多監督の経歴がものをいった可能性が高い。
曾祖父は、日露戦争の時騎馬少尉としてロシアと戦いました
帝国陸軍創成期に、下士官・兵から士官に任官出来たのは、後年だったら士官学校等に入学出来る人材が、その制度が無かったので、兵として入隊したからでは?
創成期の将校達は、平民が徴兵された鎮台さんで無く、士族で生まれた時から武士として育てられ、餓鬼の頃から人斬り包丁を腰に差し、藩学校学校で教育を受けて居たはず。
生まれや育ちが違うと、大変ですよ。家族は、もっと大変。
戦後の幹部官舎ですら、女学校出の元お嬢様や学習院出の元お姫様が、貫禄が付いた小母ちゃんとなり、何故かワル餓鬼程可愛がる、ほぼ周囲と隔離された浮世離れした空間でしたよ。
第二次世界大戦では
米英の将軍、ドイツの将校、日本の下士官、イワン(ソ連)の兵隊が優秀と言われます。
米英のトップはずる賢い。
ドイツは兵器の設計、運用も合理的に考える。
日本の下士官は職人気質で、練度も高い。
イワンの兵隊は命令通りに動くので都合よいが人的には大損害となる。
各国の国民性を表す。
将官クラスが無能(特に参謀)
下士官が二流から一流の間
兵士が超一流
士官学校でマニュアル通りに動くように育成してしまう方針の結果でしょうか。
現場の人は命かかってるから、どうしたら勝って生き残れるか知恵を絞りますよね。
爺ちゃん伍長で軽機関銃だったって。
軽機関銃と言っても重かったみたい。
終戦で復員船で帰る時、たくさんの軍曹伍長 下の兵隊に海に放りこまれたらしい。
部下をいじめた下士官 哀れな結末。
ヒトラーも第一次世界大戦では伍長だった。
下士官は、職業軍人ではないですよね
小野田寛郎氏は徴兵から中野学校で中尉だったから、特殊な才能を見込まれた人は末期でも例外的な昇進もあったのでは。
場をお借りします>
妻へのメイルぐらいでビビるなよ
お前らの社則では
洗面台行ったら共和党で
トイレ行ったら共和党で
2階のカーテン閉めたら共和党なんだろ?笑笑笑
という罵倒がひたすら飛んでくるからよろしく笑笑笑
漫画だけど、「のらくろ」は2等兵から陸士出て大尉で退官したんだからすごいのか。
自分の高祖父が元陸軍軍医大尉で中国戦線に身を置いていたらしく、終戦間際のソ連からの撤退戦が一番受け持つ負傷者がたくさんいて治療が間に合わずに息を引き取る人が多く精神的に苦労が絶えなかったと祖父から聞いたことがあります。
何度でも言ってやる
政治はやらねえ
私を馬鹿にしてきた奴らの為に働くとかとんでもねえな
どうりで太平洋戦争時、下士官が優秀だと敵から評価されたことがわかった❗🤔と、同時に「年功序列」が弊害を生んで行くのですね。😥だから、あの戦争は大日本帝国軍の自己崩壊だと私は見ている。いかに強力な新兵器を出しても負ける結果になるのです‼️それを扱う人間に問題があったから‼️🤪
ゆっくり解説は真に受けちゃ駄目だなぁ…。自分で調べよう。歴史学科は国立国会図書館に行け。
質問です。
投稿日は毎週金曜日から水曜日に変わったのですか?
農民から上等兵までいけたらたいしたもので😊
>下士官が陸軍士官学校を受験→その形で将校になったのが、若林東一。WW2での香港攻略戦時に中尉で、将校斥候として、英軍陣地(ジンドリンカーズライン)を偵察。防御の不備を見つけて、独断専行で突撃。それが日本軍の総攻撃に繋がって、1日で敵側戦線を崩壊させたというもの。1943年、ガダルカナル島戦で戦死。最終階級は大尉。
>予備役編入→旧軍でのクビ(退職)を意味する言葉。
>下士官学校の志願者が順調に減少→言い方が冷笑的で草。
それでも、終戦までの日本陸軍には、特務士官という昇進制度が残っていて
下士官から少尉任官の道があった。
終戦間際に、根本中将の旅団と対峙したソ連軍には、初老の中尉がいたはずだ。
最低でも大卒でないと士官になれない米軍将兵は、羨ましいと言ってたそうな。((丸))
辻権作少将はどうしたんだっけ?
ご先祖様日本政府はまた戦争の惨禍を引き起こそうとしています。どうかご加護を
お疲れ様ですw
差し詰め。これが陸自な高等工科学校のモデルか
勉学ばかりしているから(机の上の作戦計画しか立てられない)…今のロシア軍と一緒だよ。
今自衛隊では士官三尉になどなりたくなく、仕事キツくなり給料もほとんど変わらん。
曹長でいい
頭デッカチの使えない奴を増やすだけだね
私の祖父は学生時代に入隊、大陸に渡り教育隊→金陵士官学校へ。半年後には曹長だったみたいです。昭和20年8月
(軍歴証明参照)
1920年より少尉候補生制度が成立し、成績優秀な下士官は試験により陸軍士官学校に入学する事が出来るようになった。1連隊で1,2名だったらしい。
昔、秋田の実家に陸自の制服着て帰省しました、親父の兄弟から、下士官に成ったか❗と散々呑まされました😅
親父の兄弟でも、親父までが軍歴有りでしたから、三等陸曹は?どんな?階級だ?と聴かれましたから、親父が昔で
言う、陸軍伍長と応えたら。親父の兄達は、試験受けて下士官❗後は士官の受験資格出来るまで頑張れ❗でした~
現在の自衛隊の方が人事制度としては、まだ公平性が高いと思います。高卒陸士から定年は幹部でしたから