【山根視来】高校で引退から一転して無名から這い上がってきた男のストーリー 【ロサンゼルス・ギャラクシー】
山根選手は1993年12月22日神奈川 県横浜市出身で兄の影響で5歳の時に熱海 のFCに加入した兄と高俊幸選手が同い年 で幼馴染みであり2人に憧れを抱き平日も 山根兄弟と父は一緒にサッカーをしていた 小学校4年の時には東京ベルビーの株組織 へ加入し中学もそのままベルビーの ジュニアユースに昇格サッカーの実力を5 段階に分けるとしたら僕は2くらいのでし たそれでもプロになりたいという強い思い はありました小中学生時代は東京 ベルディーのアカデミーで育ったが ニュースには昇格できず高大連への進学を 選んだ高校生当時は全国的には無名で世代 別の代表にも選ばれなかったその言葉通り ベルビーのユスチームへは昇格できず第1 学院高校へ進学した中3の時の監督から第 1学院のサッカー部にチームの先輩が入学 していると話を聞いて第1学院のことを 知りました僕の1学年上や同学年にすごい 選手がいて監督が非常に立派な方というの もプロを目指すのに最適な環境だと感じ ましたサッカーの練習に最大限時間が 使える通信性という点も僕にはあってい ましたサッカー部は平日の午前中から午後 にかけて練習夕方から勉強というスタイル です高校の監督は山根選手の当時の印象に ついてまだ体ができてなくて細みで ひょろひょろ足元がうくて頑張る選手だと いうイメージでしたと振り返る通信性の 高校でサッカー部は全量性山根選手のよう にユスに昇格できなかった選手の他競合 高校を仲介し転入してきた選手など顔ぶれ は様々だった今でも印象に残っているのは 制限時間内にチーム全員がゴールしなけれ ばならない総力を鍛えるメニュー山根選手 は12分間走など総力は常にチームで ぶっち切りのトップだったその中で走れ ない選手の手を引っ張って走っていた時間 内に入るために必死で引っ張って走ってい た姿は今も残っています脱落しそうになる 仲間を決して見捨てない責任感は当時から 抜群だった東京ベルビユース時代は フォワードで高校でも当初は2列目で起用 されていた2列目から前に出ていったり ストライカーよりはチャンスメイクする イメージでしたしかし山根選手の他にも 強力なフォワードの選手がいたため両者を 生かすために山根選手はボランチに コンバートされたもったいないし彼を 生かすためにと考えた時にボランチをと 本人も試合に出た方がいいからというのが あったのかな守備ではプレスバック攻撃で は前にボールを預けて自分がゴール前に 入り込み上下運動を繰り返し持ち味の総力
が生きたそんな充実した高校生活を送る 山根選手だが高校3年になる前の3月 東日本大震災に見舞われ茨城県にあった 高校が被災練習場所を失い山根選手は学校 の指示に従って親本の神奈川県へ戻ること になった自ら地元でサッカーの練習場所を 探す中自宅から近い党員横浜大学が 受け入れてくれることになりトレーニング に参加させてもらい実力を示したことで 推薦入学のセレクションを受ける機会に 恵まれると見事にチャンスを掴み取ること となったのだ当時の党員横浜台は関東大学 2部リーグに所属していたものの迷いは なかったあの頃の僕にとっては関東2部で も十分に魅力的でしたそもそも高校を卒業 してサッカーをやめようかと思っていた くらいなので普通に大学に通うか就職 しようと考えていましたというほど自分に 限界を感じ高校でも目立った実績を残せて いなかったので自らが置かれている厳しい 状況を理解してプロへの夢を諦めかけてい た強いとは言えない茨城圏内でも突出した 存在ではなかったですから自分が昇格でき なかったベルリユースのうまい選手たちで さえプロに慣れていない現実を見てこれは 僕が行ける世界ではないなと思ったんです 党員横浜大学に入学これが山根選手の サッカー人生を変えた入学語行きなりA チームに抜擢され関東大学2部リーグでは 開幕戦からスタメンで出場し続けて大学の 壁に苦しむルーキーが多くいる中山根選手 はシーズンを通して左サイドハーフとして 活躍高校時代は主にボランチだったが本人 も自覚していなかった攻撃力を監督に評価 された自分がドリブルもできるなんて思っ ても見なかったです大学1年目からゴール に向かうことを意識し左サイドから中央に 切り込み右足で強いシュートを打つ形を ずっと練習した すると前期リーグの2試合目となった東海 大学戦で決勝点をマーク後期リーグは初戦 の各色大学戦で貴重な同線団一部昇格を 争う駒沢大学戦でも勝ち越しゴールを 上げるなど要所で結果を残し党員横浜大発 の関東大学一部リーグ昇格に貢献チームと 共に着実に成長していった1度サッカー 選手からドロップアウトしそうになった 山根選手はもはやただの無名選手では なくなったのだそして迎えた大学2年目プ 予備軍とも言われる競合チームが集う一部 リーグへドン底から登り詰めてきた山根 選手はこの舞台で衝撃を受けることになる 大学2年生となり初めて望んだ関東大学 一部リーグの開幕戦前年王者の先週大学に 挑みカプなきまでに叩きのめされた僕の中
でこれより衝撃的な試合はないですという ほど前半9分に山根選手が先制ゴールを 奪ったものの終わってみれば2対6の大敗 ストア以上の実力差を痛感した卒業後J クラブを経由せずにドイツに渡った長澤 選手を始め後にJリーグで活躍する中川 選手などの突出したこの力に圧倒されたの が本当に叶わないことだらけでこのレベル まで到達しないとJ1クラブにはけないん だなと思いました記憶に残る配線はプロを 目指す上での指標の1つとなった入学から 2年間は無駄夢中で走り続けたすると大学 3年目からは少し余裕が生まれ落ち着いて プレイができるようになり前期リーグから コンスタントにボールをを重ねるように なったリーグ戦21試合に出場し得点 ランク5位となる8ゴールを記録得点 ランキングでも上位に直すらめこれまで 以上に欲が出た得点大争いもプ入りも色々 意識するようになってきました数字を残せ ば目にとまりますし一部残留を目指す チームにも貢献できると思っていました 2014年6月にはユニバースヤードを 目指す全日本大学選抜の候補合宿に参れた 同世代のトッププレイヤーたちと共にしぎ を削る中で刺激を受けた周囲の話に耳を 傾ければすでにJクラブから声をかけられ ている選手たちもいる僕自身3年生の時点 ではプロからの話は一切なかったのですが ここはそういうレベルの場所なんだなと 確かに周りの選手たちはうまかったただ僕 も自分の特徴を出せればやれないことは なかったです2015年ユニバーシアード 大会の日本代表には選出されなかったが すでにJクラブのスカウトには注目される 存在になる4年生になるとj2ののクラブ からテストの意味合いを持つ練習参加の話 が舞い込んできた初めてプロの練習参加に 呼ばれいい感触を得ることができたんです この時僕もプロになれるかもと思いました でももっと上を目指したくて大学入学時は プロ入りすら想像できなかった21歳の 山根選手が見据えたのはJ1の舞台j2 からのオファーにあまんじることなくより 一層練習に打ち込み目標に向かって貪欲に ボールを狙い続けたそして2015年9月 の天皇杯2回戦で力を試す格好の機会に 恵まれた党員横浜台が立ち向かったのは超 監督が引きいるJ1の湘南ベルマーレ当時 湘南スタイルと呼ばれたアグレッシブな 戦い方で扇風を巻き起こし魅力を感じてい たチームだ僕らは失うものがなかったので 全力でぶつかりました歴然とした力の差が ある中最後まで勝負を諦めず2点を 追いかける60分には山根選手が意地の
ボールをもぎ取り試合は3対4で破れたが J1相手に大検討試合後超監督も大学生の 奮闘を褒めその舞台裏では湘南の強化部が すでに動いていたロッカールームで山根 選手が着替えている時湘南の強化部から すぐにでも練習参加に来てほしいと言われ たんです9月以降は湘南の練習グラウンド に何度も足を運びトレーニングと練習試合 をこなしたしばらくして後頭で内内定を もらい正式に仮契約のサインをかわしたの は12月決まるまでは不安でしたが 嬉しかったですねJ1のクラでしたし僕の 中では大きなことでした全日本大学選抜の 同期が次から次にJ1から内定をもらって いましたしユニバの代表から漏れた僕は みんなに置いて行かれている気がしてでも これで同じ土俵で戦えるんだって思いまし た2016年より湘南ベルマーレへ加入1 年目は負傷の影響もありリーグ戦では出場 機会はなかったがナビスコカップでは試合 に出場しかしサイドでボールを受けても 運べないし抜けない連携でかわすことも できないにも中にも切込ず全く通用し なかったチーム自体もこの年は生明し屈辱 のj2をちを味わうことになる2017年 2月シーズン開幕へ向けたスペイン キャンプが行われていた最中に超監督に 才能を見出されてセンターバックに コンバートお前はどこをやっても無理だ から今シーズンはここをやってみろと突然 告げられたドリブルが武器だと思っていた 山根選手がメオを食らったのも無理はない それまでディフェンダーなんてほとんど やったことがなかったし最初はホバックの 右サイドバックだと思っていたらスリー バックの右だったのでただ監督の言葉に 最初は驚きながらも日のポジションへの チャレンジを迷うことなく受け入れた試合 に出られれば何でも良かったのでそこに 対する抵抗みたいなものは全くなかった ですねすると開幕戦のミトホーリーホック 戦では343の右センターバックに抜擢さ れリーグ戦デビューを果たしこの コンバートが元々サイドアタッカーを務め ていた山根選手の攻撃性をさらに引き出し プロの部隊でもを表していくこととなるだ がシーズンが進むにつれ山根選手のプレイ は悪い方に目立った守備はうまくない フィードもミスをすることもあったそれで も必死に体を張ってチームのために身を 投げ出せる苦手であろう守備に懸命に 取り組めるそんな選手だった2017年は j2で37試合に出場総力や対人における 守備が少しずつ良くなってきている大学 時代までの自分にはない武器が備わりつつ
あると山根選手自身も実感していた そしていつしかこのポジションに楽しみを 感じていたそれは超監督の守ることだけに 特化させない考え方によるもので逆に ボールをどんどん持ち出せとチャンスで ドリブルをしなかったらお前何のために そこで出ているんだと試合中にも言われる 初めてのポジションだろうが関係ない ストロングポイントを全開にさせて失敗し た時には理由を考えさせるそんな超監督の 元で山根選手は鍛えられ主力に成長チーム もj2優勝で1年でのJ1復帰を決めた 戦いの舞台をJ1へ移しても2018年は 32試合2019年は31試合に出場し フィールドプレイヤーでチーム最長の プレイ時間を記録したそしてその パフォーマンスがLCニョが抜け右サイド バックを探す川崎フロンターレの目に 止まったのだ2020年より川崎 フロンターレに完全移籍移籍するならば誰 が見てもステップアップと思われるような ところに行きたかったと川崎を選んだ加入 当初はフロンターレの選手たちが日々の 練習から見せるテクニックの高さそして 止めるケルを正確に繰り返す姿に圧倒され たフロンターレに入って自分もうまく プレイしなきゃいけないんじゃないかと 悩んでしまった時期もありましたけどそう いうプレイを評価されてオファーをもらっ たわけじゃないと気がつきベルマーレ時代 にやっていたプレイをすればいいんだと 開き直れたというか今でも自分が下手くそ であることには変わりありませんけどそれ でも少しずつ上達している実感もあります と本来の輝きを取り戻し家選手との盾の コンビネーションを築き上げシーズン当初 から右サイドバックのポジションを確保 すると7月の第7節湘南ベルマーレ戦で フルス相手に得点したこの年は自身も プレイスタイルを十分に発揮しチームのJ 1リーグ制覇に貢献31試合4ゴール6 アシストを記録し地震初となるjリーグ ベスト11に選出されたその活躍が日本 代表のモア監督の目に泊まり2021年3 月に代表に初選出されると3月25日に 行われた韓国戦でデビューしいきなり初 ゴールその後も日本代表の常連メンバーと なっていった2021年シーズンも37 試合2ゴール12アシストと川崎のJ1 連覇に貢献し2年連続でベストイレブンに 選出そしてワールドカップアジア最終予選 のラスト2試合を戦うメンバーにも選ばれ オーストラリアとの大1番で得点を アシストするという重要な仕事をやって のけた右サイドバックでは1番手とされて
いる酒井弘樹選手が怪我で不参加だった 事体があったとはいえいつももちろん出る つもりで準備しているという姿勢がこの 活躍につがったのは間違いないカタール ワールドカップのメンバーに選ばれるのか 今後の山根選手に期待ですねご視聴 ありがとうございました現在チャンネル 登録4000人を目指しておりますので よろしければチャンネル登録をお願いし ます今回の動画では山根選手についてお話 しましたが皆さんの好きな選手など コメント欄で教えていただけますと嬉しい ですそれではまた次の動画でお会いし ましょう
今回は山根視来選手のご紹介です。
山根視来選手をJリーグのサポーターの皆さんが
どんな選手なのか知っていただけると幸いです。
リクエスト選手や動画に対するご意見・コメントよろしくお願いいたします。
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