吉田拓郎・かぐや姫 コンサート in つま恋1975
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『吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋』は、吉田拓郎、かぐや姫が1975年(昭和50年)の8月2日と日付をまたいで8月3日の2日間に亘って行った静岡県掛川市・つま恋多目的広場での野外オールナイトライブコンサート、“元祖夏フェス”
概要~
吉田拓郎が前年の10月に4日間連続でコンサートを行なった際に、もっと大きな場所でコンサートをしたいという考えと、当時のジョイントコンサートは、お客が自分の嫌いなシンガーのステージになると歌を聴かずに勝手なことをやるという状況があったため、”単独のアーティストによる大コンサート”をやりたいという拓郎のアイデアが発端で始まったもの。
当時はまだソロで大規模の野外コンサートをやった者はなかった。
「ウッドストック」の影響をいわれることが多いが、吉田拓郎自身はコンサート直前の『YOUNG GUITAR』1975年7月号のインタビューで、遠方からもお客が集まるボブ・ディランのコンサートをイメージしたと話している。
日本は狭い国だから同じことが出来るんじゃないかと考え、とにかく広い場所を探してくれとスタッフに頼み、最初は中津川でやりたいと考えたが、紆余曲折あってつま恋になったという。
もともと一人でやるつもりだったコンサートにかぐや姫が参加した経緯については、一人で一昼夜もたせる程の曲数はないし、体力が続かないという判断から。
これをジョイントコンサートと見てほしくない、同じ場所でかぐや姫のステージという別のイベントがあると考えて欲しいと話した。
吉田拓郎が「どうしてもかぐや姫とやりたい」とコンサートの4ヶ月前に解散していたかぐや姫を再結成させた。
吉田拓郎はつま恋を「最後に残された新しい形式」と当時話しており、それまでの多くの改革も戦略的に行なわれてきたことが伺える。
これまで教条的なフォークファンから「裏切り者!」「商業主義!」などと、何度も「帰れコール」を浴びて、石を投げつけられたこともあった吉田拓郎にとって、政治色を排除し純粋に音楽を楽しむ文化が未成熟だった時代にケリをつける意味で、ただ音楽を楽しむ本イベントの成功が必要であった。
コンサートの企画、及び運営は、後藤由多加が「ウッドストック」に触発されてユイ音楽工房主導で行った。
またフォーク系の野外コンサートは数年来、退潮が伝えられ途絶えかけていた時代の開催でもあった。
開催まで~
掛川の地元住民にとっては野外コンサートにも馴染みがなく、フォークやロックもまだよく分からない人が多いため、スタッフは「拓郎、かぐや姫の歌はロックとは違い、静かに聴く歌です。観客が興奮して騒ぐといった光景は、どのコンサートにもありません」「週刊誌・新聞等が”拓郎が歌う町・掛川”の特集記事を組み、全国に掛川市の紹介を行う企画を立てております」などと書かれたパンフレットを作成した。
地元の理解を得るためイベントの趣旨を伝えてまわった。
チケットはすぐに完売したが、静岡県には青少年の夜間外出を禁じる条例があり[15][16]、オールナイトイベントに強行参加する青少年を強制退去させれば中津川以上の暴動が起こるのでは、と不安視された。
当時このようなイベントを開催するのは非常に困難で、地域住民や行政、PTA、警察などから、ことごとく反対され、静岡県警と教育委員会に中止勧告が出されるなど、イベントが近づくにつれつま恋は開かれないのではという噂が立ち始め、ユイ音楽工房は何度もつま恋は開催されると広告を打った。
マスコミからも反対されて協力的な部分は少なく、運営側とすれば「意地でもやってやろうじゃないか」という気持ちになっていったという。
最終的に事態を打開したのは、そうした事情を聞き及んだヤマハの川上源一のバックアップだった。つま恋は川上が世界のリゾート施設を実際に見てまわり、自身が学んだエキスを注ぎ込んだ肝いりプロジェクトでもあった。
静岡県はヤマハが強く何とか開催に漕ぎ着けることが出来た。
前年オープンしたばかりで全く実績も知名度もない「つま恋」が選ばれたのは、野外で大人数を収容できるという点で当時としては国内最大。
また東京・名古屋・大阪を中心とした三大都市圏から近く、交通の便が良いという理由であった。野外で5万人以上を集めるオールナイトコンサートは、それまで日本では前例がなく、すべて手探りで始まった。
当時の掛川市の人口は6万人
その一角に市の総人口を上回る人が集まるのだから、当日まで想定外の連続であった。
最寄りの掛川駅にはまだ新幹線は止まらず、大半の観客は在来線を乗り継いで掛川駅で降り、つま恋のゲートまでの数キロ、歩行者の行列ができた。
映像や写真で見るとハイキングのような恰好をした若者が多いのは、最初から歩くことを想定していたためである。
今と違い、全席自由だったので、なるべく前で観ようと、早い人で1ヶ月も前からつま恋のゲートに並び始めて、一週間前には3〜5千人が入場ゲート前で簡易テントなどを張って野宿をし始めた。
またゲート前にはトイレがなく、女性は近隣の民家でトイレを借りたが、男は周辺の茶畑で野糞をし始めた。
このため農家から苦情が入り、スタッフの若手社員が連日回収に行かされた。
炎天下での人糞処理は過酷なものであったという。
主催者側は事件事故の発生を恐れ、深夜もゲート周辺をライトで照らし続けたり、一部の会場施設を開放したり対応に追われた。
ライブ当日〜
当日開場は正午予定であったが混乱を避けるため、午前9時に繰り上げられ、徹夜組6千人を含む約3万人の大群衆が長蛇の列を作り、会場の入り口である南口ゲートに殺到して、会場に一斉になだれ込んだ。
この日の最高気温は35度と猛烈な暑さで、コーラの売り上げ12万本、アイスクリーム売り上げ6万個。
数万人規模で人が集まると自動販売機は補充が間に合わないため冷房が機能せず、数日前から飲み物は何百ケースと事前に冷やしておいた。
しかし日射病で倒れる人が続出し、救護班のテントの中には若い女性が魚河岸のマグロのように並べられた。
吉田拓郎も「この5万人が暴れだしたら、どうなってしまうんだ」とその光景を「怖かった」と話している。コンサートは無事夕刻から始まった。
今日では批判の対象になるが、拓郎を始め出演者は経験したことのない大観衆に足がガタガタ震え、酒を飲める者は全員酒をラッパ飲みしてステージに上がったといわれる。
拓郎は緊張しすぎて後に「かぐや姫がいたことも覚えてない」と話した。
夕刻「あゝ青春」を皮切りに吉田拓郎のファーストステージが始まり、拓郎の音楽シーンに残る名台詞「元気ですかー!朝までやります、朝までやるよー!」の絶叫で白熱化していった。
吉田拓郎、かぐや姫と交互にステージに立ち、吉田拓郎59曲、合計108曲が「人間なんて」の大合唱で夜明けとともに終了した。
終演後にはその場で眠る人が続出した。
かぐや姫は一夜限定での再結成であった。
心配されていた暴動等は起きずイベントとして大成功を収めた。
狂乱を期待して集まった報道陣は肩透かしを食ったといわれる。
観客数〜
警察発表6万人、主催者発表5万人、報道では6万5千人、7万人とも、7万5千人とも、チケット印刷7万4千枚、チケット発売枚数推定5万6千人などと、正確な観客数が不明で、食い違いがある。
当時の資料によれば、チケットは43,000枚刷ったとされ、これを北海道、東北、関東、静岡、中部、関西、中国・四国・九州の7地区に振り分け、最多の関東が15500枚に比べ、北海道は遠くて来ないだろうと僅か400枚しか振り当てなかったという、アクセスの向上した今日では考えられない判断がなされた。
当日券の存在がうやむやであったり、チケットを持たずに現地入りした者がかなりいた、発券数をはるかに超える人が入場したといわれるため、正確な観客数は不明である。
セットリスト
吉田拓郎 1st.Stage(PM5:10〜PM6:20)
1.あゝ青春、2.花酔曲、3.暮らし、4.春だったね、5.おきざりにした悲しみは、6.むなしさだけがあった、7.やせっぽちのブルース、8.春の風が吹いていたら、9.今日までそして明日から、10.暑中見舞い、11.都万の秋、12.夕立ち、13.おはよう、14.ペニーレインでバーボン、15.人生を語らず、16.いつか街であったなら、17.世捨人唄、18.贈り物、19.戻ってきた恋人、20.イメージの詩、
かぐや姫 1st.Stage(PM6:50〜PM8:30)
1.人生は流行ステップ、2.ひとりきり、3.黄色い船、4.今はちがう季節、5.うちのお父さん、6.この秋に、7.雨に消えたほゝえみ、8.ペテン師、9.マキシーのために、10.あの日のこと、11.おもかげ色の空、12.けれど生きている、13.なごり雪、14.夏の思い出、15.君がよければ、16.加茂の流れに、17.妹、18.僕の胸でおやすみ、19.あの人の手紙、
吉田拓郎 2nd.Stage(PM9:00〜PM10:30)
1.夏休み、2.まにあうかもしれない、3.旅の宿、4.どうしてこんなに悲しいんだろう、5.結婚しようよ、6.知識、7.おやじの唄、8.私の足音、9.僕のエピローグ、10.ひらひら、11.野の仏、12.さすらい時代、13.金曜日の朝、14.伽草子、15.襟裳岬、16.親切、17.三軒目の店ごと、18.ともだち、19.シンシア、20.せんこう花火、21.されど私の人生、
山本コウタローとウィークエンドStage(PM11:00PM11:30)
1.ウィークエンドのテーマ、2.サーフィン・サマーナイト、3.春でした、4.めぐる奇跡、5.東京のうた、6.岬めぐり、
かぐや姫 2nd.Stage(PM11:50〜AM1:00)
1.赤ちょうちん、2.アビー・ロードの街、3.星降る夜、4.置手紙、5.眼をとじて6.雪の降る日に、7.神田川、8.Stage(AM1:00〜AM1:30)、9.でいどりーむ、10.海岸通、11.なんとなく、12.はずれくじ、13.星空、14.22才の別れ、
山田パンダ Stage(AM1:30〜AM2:00)
1.さようなら友よ、2.窓辺、3.風の街、南こうせつ Stage(AM2:00〜AM2:50)
1.昨日にさようなら、2.花一文目、3.カリブの海、4.みんなでおどろう、5.海になりたい、6.荻窪二丁目、7.旅するあなた、8.嵐の航海、9.幼い日に、
吉田拓郎 Last Stage(AM3:00〜AM4:35)
1.こうき心、2.ビートルズが教えてくれた、3.たどり着いたらいつも雨ふり、4.君去りし後、5.ルームライト、6.マークII、7.落陽、8.地下鉄にのって、9.からっ風のブルース、10.新しい朝、11.君が好き、12.雪、13.となりの町のお嬢さん、14.晩餐、15.明日の前に、16.僕の唄はサヨナラだけ、17.我が良き友よ、18.恋の歌、19.人間なんて (このコンサート全体の最後の曲)
合計108曲~♪
ライブ後日談〜
コンサートの模様を収録したドキュメンタリー映画が作られ、日本全国でフィルム・コンサートという形で上映された。撮影したのは石田弘を中心としたフジテレビの撮影クルー。
あまり知られていないが、坂本九がこのコンサートを全編通し最前列で見続けていた。
また吉田拓郎、かぐや姫は、2006年にもつま恋多目的広場で「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」野外コンサートを開催している。
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