〇目次
0:00~ 概要
0:57~ 富士川の戦い
1:19~ 御恩と奉公
1:40~ 本領安堵と新恩給与
2:06~ 侍所
2:41~ 公文所と問注所
3:20~ 大江広元
3:46~ 三善康信
4:10~ 奥州合戦
4:33~ 頼朝上洛
5:01~ 征夷大将軍
6:06~ 富士の巻狩り
7:04~ 木曽義高と大姫
8:22~ おわりに
今回は社会の日本史、鎌倉時代編でしたが
大学受験レベルの日本史を視覚支援を使って
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#日本史 #教育 #授業
32 Comments
征夷大将軍の位をもらうことは、奥州を平定して討伐する相手もいなかったのに、そんなに意味があったのですかね。この頃から武家の最高位と言うブランドになっていたのでしょうか?
頼朝は割と怖いイメージだったんですが、家庭内はかかあ天下だったとは驚きです笑
歴史書の頼朝の死のページだけ消されているっていうのはとても興味深いですよね!やっぱり他者を排斥することが多かったので恨みを持ってる人も少なくは無かっただろうと推測出来ます。
いつも見てます!!
最近日本史が楽しいです☺️
源頼朝の死は北条家が実権を掌握するための陰謀かも知れませんね。
父義朝を褒美欲しさに清盛に売った長田忠致、影致親子をに対して「懸命に働いたのであれば美濃尾張を褒美として取らせよう」と言っておきながら、奥州征伐後の義朝の法要の時に親子を処刑する際に抗議してきた二人に対して「約束通り身の終わり(美濃尾張)をくれてやるんだよ今から」と長田親子も確かに非はあったとはいえ約束反故にするの見たら、頼朝死後に一番得をした妻の実家でなくても後の足利義教を葬った赤松氏なり織田信長に謀反起こした明智光秀なり「やられる前にやってしまおう」と思っていた御家人もいたのでは?
御家人は「一所懸命」 で家族を守ってきた が元寇後 土地問題などで鎌倉時代が衰退したという印象があります。
元寇後 孔子配分=くじに従って土地を配分すること。恩賞配分
ここから、鎌倉幕府に大変マイナスな印象があります。
一所懸命から 一生懸命という言葉が生まれたかもしれませんね。(間違っていたらすいません。)
頼朝は平氏本家の北条氏の力をかりて平氏分家の清盛平氏を倒しましたね~
大倉幕府って?
かっきる!かっきる!
正直、望んでた情報より詳細過ぎましたが、圧倒的センスと息遣いで見入ってしまいました、、、日本史は何故か入りづらいのですが、芸術観賞しながら学ばせて頂きますm(_ _)m!
右近衛大将は公家の作法や知識も問われた官職だった(後の足利尊氏・義詮親子も辞退したが義満は南北朝統一というかコネを持つために利用する形で受け入れた)からそれもあって「朝廷から貰った官職に価値もない」と口実つけて官職返還して、後白河法皇もそれを見越して右近衛大将止まりにしたのかと
娘を自分の猜疑心の犠牲にしても詫びるどころか、追手として差し向けた家来を晒し首(八つ当たり)とか親としては頼朝はダメなところがあったのかと
足利の初代尊氏も義詮の異母兄の直冬を世継ぎ争いになること恐れていたのか子供として認知しなかったり、徳川も信長に好きなようにしていいという説もあったとはいえ信康事件で信康諦めたり、次男の秀康も信康のとりなしで面会と実子としては認知したものの秀吉との和睦の条件としてあっさり人質に出したりと子供にはある程度冷酷でないとダメなら兎も角、頼朝の場合は弟や同じ源氏でも厳しかっただけで頼家には甘いというのがまさか自分の死後にそれが降りかかるとは思っていなかっただろうな
First General‼️
😑💭うーん、義経の方がいい^^;
義経なら…頼朝のようにやらないし一途で日本を変えてくれていたかも知れない…。源頼朝の性格は、あんまり好きじゃないわ。もし義経が生き残って鎌倉の時代を義経が作ったら…どんな時代になっただろうか…。きっといい時代だったかも知れない…。
天皇にとって幕府とは何なのか~?
これを追求する事は、もしかしたらタブーなのかも?しれません~
そもそも天皇制度の成り立ちは、確実なことは定かではありませんが、日本が朝鮮半島の白村江で中華の大国『唐』を打倒し敗れた後、中華における皇帝と臣下の制度を日本に取り入れて形づくられたもののようです~
その時の日本としては、唐の制度を取り入れて強い国家を築き末永く繁栄したいという思いで進めた事でしょうが、唐と日本、先に滅んだのは唐の方でした~
その原因は『易姓革命』
これは中華の伝統で、徳を無くした天子は身を引き、天命により遣わされた別の血統の天子へと改変されるという思想で、唐以前から中華の地に根づいているものです~
実は、幕府の始まり鎌倉開府当時の中華の大国『宋』も、そうやって誕生した国でして、それまでは朝廷が独占していた外交を、代わって受けもつ事になった武家の棟梁である平清盛さんや源頼朝さんも、その思想を知った事は間違いないと思います~
そして、この『易姓革命』、この当時のスタンダードな形が、王朝内の大臣や将軍が権力を段階的に皇帝から譲られ、最後に帝位を禅譲されるという流れであったのです~
つまり、源頼朝さんにとって幕府成立は、帝位禅譲を狙った布石であった可能性もあるのではないでしょうか~?
しかし本人の死、執権北条氏の暗躍のせいでかはわかりませんが、二代、三代と早世しまい、その血統は絶えてその目的はわからず仕舞です~
しかしながら、打倒鎌倉を成し遂げた後、後醍醐天皇さんの建武の新政での武家へ権力を持たせることへの確かな拒絶反応を見ると、先達の偉大な天皇への信望や憧れだけでは説明がつかないように感じてしまいます~
そして、次の室町幕府、、、足利氏も三代義満さんあたりで、そんな下心が生まれたかも?ですが、南北朝の一本化を主導し影響力を高めるにとどまり、その後は代を重ねるにつれ、お家騒動等で弱体化してそれどころでは無くなってしまいます~
そして、最後の徳川幕府は~?これも三代、家光さんのころ、後水尾天皇さんに徳川家より和子さん(後の東福門院)が輿入れします~
そして、男子誕生となり、その子への帝位禅譲がほぼ決まるも、幼くして夭折~
そこで後水尾天皇さん、何を思ったか?幕府への当てつけか?娘さんの方に禅譲してしまい女帝、明生天皇さんが誕生してしまうのです~
誕生してしまった以上は、仕方ないと時の将軍、家光さんは遠路遥々大行列で上京し、自分の姪である明正天皇陛下にご挨拶するはめになりました~
これに懲りたか?徳川家血統の天皇陛下は、以後は二度と出なかったようです~笑
そんなこんなの幕府と朝廷の歴史、紐解くと面白い話がまだまだ沢山あるかも?しれませんね~
未だに足利直義の肖像を源頼朝として出してる時点で時代遅れの説を採用し続ける紋切り型のチャンネルだとわかるな
地元には清水冠者源義高終焉の地の標柱とともに八幡宮がひっそりと佇んでいます
政子が義高をしのんで建立したそうですが、今は誰も知らないような感じで国道わきにポツンとあるだけです
ほっこりした話の流れで頼朝が馬から落ちて死んだ。なるほど、義経ファンとしてはほっこりした話ですね。
頼朝が落慶供養(政子の妹で稲毛重成の妻に当たる人物)に参加した際に乗っていた鎌倉黒という馬は、実は奥州藤原氏の猛将藤原国衡の愛馬でもあり、奥州一の駿馬とも言われた高楯黒の子供で、頼朝が落馬したのは藤原氏の恨みや、その藤原氏投手泰衡自身にとって都合のいい解釈をした(義経を追討すれば頼朝の心証をよくするだろう)事で滅びた義経一行の恨み等を、その高楯黒の子供が果たしたと囁かれている程
もっというなら、鎌倉にいた頃の義経に対して一家来として扱う証拠という意味で大工たちに馬を引いて与えさせた(義経に理解を示していた御家人の一人畠山重忠と組んだ)ことで馬がらみで義経や藤原氏は恨みを果たした?
塾に居てほしい
落馬だっつーの
神々の末裔たち、やってることが暴力団の抗争じゃん
鎌倉殿の十三人の数人が出てきましたね
最近の研究では頼朝は征夷大将軍にはあまりこだわっていなかったということも出てきてますよね。
頼朝が征夷大将軍の官職を欲しがったのは奥州征伐の際の軍司令官として一時的に欲しがっていたとも言われていますね。
そして征夷大将軍は消去法で与えられたと近年の研究で分かってきたらしいですね。
朝廷には「惣官」、「征東大将軍」、「上将軍」、「征夷大将軍」とありましたが
「惣官」は平宗盛・「征東大将軍」は源義仲が就いていた為、凶例として却下、「上将軍」は先例がないとして却下、「征夷大将軍」はあの蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂が就いていた為、吉例として「征夷大将軍」が選ばれたと近年では言われていますよね。
流人時代に監視役の伊東祐親の娘に手を付けて産ませた子供○されたとはいえ、自分に仇をなすだろうと甥にあたる義経の子供を「1つの犠牲によって多くの血が救われる」と○すのを正当化してる時点である意味頼朝の器量の小ささがよくわかる(政子ですら静御前哀れんで命までは召し上げなくてもと嘆願したというのに)
家康も秀頼の遺児○しているとはいえ、大阪城退去するか、自分に従う選択肢選べば秀忠は武士としては恐らく機能はさせなくするとはいえ、家康が生きてる間に限れば命までは召し上げなかっただろうとすると、こっちは淀殿が周り少しでも見えていればと思うと…
え!?落馬なんかで死んだの???
現代で言えば、交通事故だよね。
人の死って、誠にあっけないですなぁ・・・
大泉頼朝ではだるま屋ウイリー事件で落車して死んだ
頼朝は義経に、平家を滅ぼさせて、自分は高見の見物で、一番得した人物❓義経を死に追いやった憎い人物義経が可哀想すぎる私的にはね、。😟
頼朝の最期、「馬から落ちて落馬した」は、日本語の間違った用法としても有名ですねw
今回の大河ドラマの頼朝の最期はゼンジがやるのか?
いつもとても勉強させていただいています!ふと疑問になったのですが、後白河法皇は頼朝を征夷大将軍にしないように、何か手を打って崩御したのでしょうか?遺言を残したり周りの部下に邪魔をさせるようにするなどしていたら、そのあたりの面倒な処理も頼朝は行わなければならなかったのかなぁと…