川淵三郎, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1501083 / CC BY SA 3.0

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川淵 三郎(かわぶち さぶろう、1936年12月3日 – )は、日本の元サッカー選手、元日本代表監督。
2020年東京オリンピック選手村村長。
Jリーグ初代チェアマンを経て、第10代日本サッカー協会 (JFA) 会長を務めた。
早稲田大学第二商学部商学科卒業。
日本サッカー殿堂入り。
2009年、秋の叙勲で旭日重光章を受章した。
JFA会長は、それまで無給だったが、川淵の代から有給となった(推定3000万円)。
会長退任後は日本サッカー協会の名誉職を歴任しており、名誉会長を経て、2012年6月より最高顧問、2020年6月15日時点では相談役である。
日本トップリーグ連携機構代表理事会長。
2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会評議員会議長。
日本バスケットボール協会エグゼクティブアドバイザー。
元公立大学法人首都大学東京理事長。
実業界では、古河グループの古河産業の取締役を務めた。
公式な愛称は「キャプテン」、渾名は「サブ」。
家族は妻と2女の4人家族。
1964年撮影 小・中学生時代は演劇に打ち込み、放課後は放送局に通い放送劇に出演していた。
その傍ら、元々運動神経が良かったため誘われる形で野球部にも所属した。
高校入学後、サッカーに誘われるも感想は「汚れるし痛い」として継続する気は無く。
退部を申し出るが部員に引き止められたことに加え「サッカーなら、試合遠征で色んな場所に行ける」と口説かれて残留。
大阪や明石の空襲で焼け跡が放置され闇市が勢力を伸ばす終戦直後の混乱期に四国などへサッカー遠征、漫遊し羽を伸ばす。
早稲田大学ア式蹴球部に所属し、日本代表として東南アジア方面に同行。
当時イギリス領だった香港のクリケットのカントリークラブにある緑の芝生に驚き、さらにドイツ・デュースブルクスポーツシューレの環境を目の当たりにし彼我の差に愕然となる。
日本サッカー協会が西ドイツサッカー協会にコーチの派遣を要請、デットマール・クラマーがコーチに就き、基本からの単調な反復練習に不満を感じるものの指導通りに出来ないことを自覚し焦る。
1970年代半ば、古河電気工業サッカー部の監督を退任した川淵は仕事に専念する。
伸銅事業部の販売課長に就任。
伸銅品の納入先はトヨタ自動車や松下電器等の大企業。
しかし間に指定問屋が介在する世界で、問屋の社長や番頭は手練手管に長けた叩き上げタイプの商売人が多く、伸銅品の販売は古河電工の営業畑で最も泥臭く人間臭い分野だった。
その一筋縄ではいかない問屋を相手に、銅の国際相場を睨みながら、かつライバル企業に競り負けぬように受注製造量や納期を交渉しなければならない。
川淵は課長でありながら即断即決で契約をまとめた。
担当役員や部長には叱責されたが、「社に持ち帰って相談していたら、注文を他社に奪われてしまう」と真っ向から反論。
一方、海千山千の問屋の社長たちにも、一歩も退かない体当たり、自己決定・実行型の交渉で、次第に信頼を得た。
どんな相手にもおもねず、臆せずに懐に飛び込み直言する言動。
のちにチェアマンとして世間に認識された川淵の姿は、当時と少しも変わらないと言えそうだ。
1988年、森健兒から日本サッカーリーグ (JSL) 総務主事の後任を頼まれ引き受けるが、森は「川淵さんはおそらく古河電工の役員として東京に戻れると思っていたんでしょう。ところが東京に戻ることになったものの、本体の古河電工ではなく系列の古河産業に出向だったんです。もしこれが本体の役員だったら彼はそっちに行ってサッカーに関わっていなかったと思いますよ。権力志向の強い人だから。これからどうなるかわからないサッカーより彼はそっちを選んだでしょう」と話している。
『「ダイヤモンド・サッカー」の時代』のインタビューでも、川淵はほぼ同内容の話をしている。
「サラリーマンとして先が見えた以上、このままでは生きていく上で夢がない。では自分の目指すことのできる夢って何だろうと考えたときに、それはサッカーしかないと思ったんです。それで総務主事の話を引き受けることにした」。
JSL総務主事になった川淵は、水面下ではプロ化の動きがあったもののサッカーに対して投げやりで、当時の場末感漂うJSLを見て幻滅しており、内心プロ化には消極的な立…

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