#三浦義澄 #和田義盛 #畠山重忠 三浦義澄にとっては父・三浦義明の仇。和田義盛にとっては、祖父・三浦義明の仇。秩父一族の畠山重忠と三浦一族の遺恨。後年、火を噴きます。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』あらすじ
第8回いざ、鎌倉
2022年2月27日(日)
挙兵した源頼朝(大泉洋)を討つため、追討軍を送る平清盛(松平健)。後白河法皇(西田敏行)は地図を広げ、丹後局(鈴木京香)らと戦況を占う。一方、奥州をたった源義経(菅田将暉)は、兄・頼朝との対面を夢見て歩みを進めていた。そのころ坂東では、上総広常(佐藤浩市)らを加え勢いを増す頼朝が、鎌倉を目指して進軍。頼朝の命を受けた北条義時(小栗旬)は、武田信義(八嶋智人)を味方に引き入れるため、再び甲斐へと向かう・・・。

『吾妻鏡』
治承四年(1180)十月一日条
甲斐国の源氏が兵を連れて急いで来ると駿河国に噂が流れたので、駿河国目代 橘遠茂は遠江国と駿河国の兵を集めて、興津の辺りに陣を構えた。一方、石橋山合戦の時に離れ離れになっていた頼朝軍の多くの人は頼朝様がおられる、現在の千葉県習志野市鷺沼(さぎぬま)の宿泊先に参りました。又、頼朝様の異母弟・醍醐禅師全成(阿野全成)も来るという良いことが重なりました。醍醐禅師全成(阿野全成)は以仁王の令旨が出されたことを京の都で聞いて、醍醐寺を抜け出し、修行のていにて下向してきたと話されました。頼朝様は、その志に泣いて感激しました。

治承四年(1180)十月二日条
頼朝様は、千葉介常胤、上総広常等が用意した船に乗って太井川(ふといがわ)、墨田川を渡りました。立派な軍勢は三万騎にも膨れ上がり、武蔵国へ進みました。豊島権守清元と葛西三郎清重が一番にやって来ました。足立右馬允(うまのじょう)遠元は前々からの命令を守って迎えにくるため向かっています。今日、頼朝様の乳母(うば)で故・八田宗綱(はった むねつな)の娘、小山下野大掾(しもつけのだいじょう)政光の妻・寒河尼(さむかわのあま、さむかわに)が最愛の末っ子を連れて、墨田川の宿泊所へ来ました。直ぐに頼朝様の御前に呼んで昔の思い出話をしました。息子を頼朝様の近侍(きんじ)にして欲しいと望んだので、直接、烏帽子親となって加冠、元服させ、名を小山七郎宗朝と名付けました。のちの、結城朝光(おやまともみつ)です。数え年十四歳でした。

治承四年(1180)十月三日条
千葉介常胤は厳しく命令して、子供等と郎従達を上総へ行かせ、伊西新介常景(いさいしんすけつねかげ)の息子、伊北庄司常仲(いほうしょうじつねなか)を攻撃させ、一族郎党、悉く討ち、千葉太郎胤正が手柄を立てました。伊北常仲(いほうつねなか)は長狭六郎常伴(ながさろくろうつねとも)の甥なので殺すことにしました。

治承四年(1180)十月四日条
畠山次郎重忠が長井の渡しに参りました。河越太郎重頼、江戸太郎重長も一緒に参りました。この者たちは、衣笠城合戦で三浦介義明を殺した者どもです。三浦義澄以下の子供や孫の和田義盛など三浦一族も沢山の人達が、頼朝様のお供について武勇を上げています。江戸太郎重長達は源氏に敵対し、その郎党の三浦介義明を討ったけれども、大勢力の秩父一族を味方にしないと打倒平家の目的を遂げ難いでしょう。忠義を尽くすには、恨み辛みを持っていてはいけないと、頼朝様は前もって三浦一族に言い聞かせていました。三浦の人々は異論なしと言ってます。三浦一族と秩父一族は、お互いに目を合わせただけで、同列に並びました。

治承四年(1180)十月五日条
頼朝様は武蔵国での労働奉仕の万雑公事(まんぞうくじ)について、在廳官人や諸郡司に命令して処理させるように、江戸太郎重長に命じられました。

治承四年(1180)十月六日条
頼朝様は相模国へ到着しました。畠山次郎重忠が先陣、千葉介常胤がしんがりをつとめました。お供にしたがっている軍勢は数え切れぬ程です。行動が余りにも早かったので、頼朝様の居館を作る暇がなかったので、民家を借りて宿泊所にしました。

治承四年(1180)十月七日条
頼朝様は、まず鶴岡八幡宮を遠くから拝んで、次に亡き父・左馬頭 源義朝様の亀谷(かめがやつ)の邸宅跡を見に行きました。直ぐにこの場所に邸宅を構えようと一旦は決められましたが、地形が広くなく、それに岡崎四郎義実が源義朝様の供養のために、お堂を建てていましたので、やめることにしました。

治承四年(1180)十月八日条
足立右馬允遠元は普段からよくつかえて、いち早く命令に従い、やって来たので、元からの領地である郡郷の支配権を今までどおり認めると、頼朝様は、おおせになられました。

治承四年(1180)十月九日条
大庭平太景義を実施担当の奉行として頼朝様の家を造る行事の作事を始めた。但しすぐには間に合わないので当分の間、知家事(ちけじ)の山内(やまのうち)の屋敷を指定して、これを移築させた。この建物は正暦( しょうりゃく)(990-995)の頃に建てられ、未だに火災にあっていないのは、陰陽師 安部清明(あべのせいめい)の家を守るお札を貼ってあるからです。

治承四年(1180)十月十一日条
卯の刻(午前六時頃)に御台所(政子)が鎌倉入りをしました。大庭景義が迎えに上がりました。昨夜、伊豆の秋戸郷(あきとのごう)から到着したけれども、引越ししては縁起が悪い日なので、稲瀬川(いなせがわ )の民家に宿泊していました。又、伊豆山走湯権現の專光坊良暹(せんこうぼうりょうぜん)が、前々の約束があるので到着しました。彼と頼朝様は長年の師僧と檀家の関係です。

第9回
決戦前夜 2022年3月6日(日)
ついに鎌倉入りを果たした源頼朝(大泉洋)の一党。敵対した平家方を捕らえるため、頼朝は競わせるように和田義盛(横田栄司)と畠山重忠(中川大志)を派遣。これを知った北条義時(小栗旬)と三浦義村(山本耕史)は、祖父・伊東祐親(浅野和之)と八重(新垣結衣)を救うため急ぎ伊東へと向かう。そのころ、都を出た平家の追討軍が東海道を進軍。甲斐では、出陣を約束した武田信義(八嶋智人)が義時の父・北条時政(坂東彌十郎)に・・・。

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