#源頼朝 #大泉洋 #小栗旬 THE 13 LORDS OF THE SHOGUN 北条義時をはじめ坂東武者から「佐殿」と呼ばれる源頼朝。では、なぜ、源頼朝が「佐殿(すけどの)」と呼ばれるのでしょうか?頼朝が、従五位下右兵衛権佐という官位だったからです。官位とは「官職」と「位階」の組み合わせです。
「官職」とは行政機関の役職です。右兵衛権佐を分解すると、「右兵衛(うひょうえ)」「権(ごん)」「佐(すけ)」の3つに分けられます。
まず「右兵衛(うひょうえ)」は、役所の名前です。都の行政組織に「兵衛府(ひょうえふ)」という宮門の警護や行幸・行啓の供奉(ぐぶ)などを担当する役所がありました。すなわち、左兵衛府(さひょうえふ)と右兵衛府(うひょうえふ)です。頼朝は、右兵衛府(うひょうえふ)に配属されていたのです。ちなみに、「右」よりも「左」のほうが上位になります。次に「佐(すけ)」は、階級です。兵衛府の場合は4段階あり、佐は次官にあたります。そして「権(ごん)」は、仮、ないし副という意味です。つまり、右兵衛権佐とは、「兵衛府に配属された次官心得」と例えると、わかりやすいでしょう。
「位階」とは貴族の序列です。「位階」は最上位の「正一位」から最下位の「少初位下(しょうしょいのげ)」まで全部で30段階あり、数字がより小さいほど上位、「従(じゅ)」よりも「正(しょう)」が上位、「下(げ)」よりも「上(じょう)」が上位です。頼朝が就いた右兵衛権佐は、従五位下に相当します。
天皇の住まいである内裏(だいり)清涼殿(せいりょうでん)の殿上間(でんじょうのま)に昇ることを許されるには、基本的に、五位(ごい)以上の位階が必要とされました。

[略年譜]
平治元年12月9日、平治の乱。院近臣らの対立により発生した政変。
平治元年12月14日、13歳の頼朝は、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)へ任じられました。源頼朝は、「貴族」の入り口に立っていたのです。
平治元年12月26日、平清盛、六条河原で源義朝軍を破る。
平治2年正月9日、頼朝の父・義朝と義朝の乳兄弟(ちきょうだい)鎌田政清 (かまた まさきよ)の首は、京都で獄門となりました。
平治2年1月10日、平治の乱により永暦と改元。
永暦元年2月9日、源頼朝は平 宗清(たいら の むねきよ)に捕縛されました。
永暦元年3月11日、(経宗が阿波、惟方が長門に配流。同日、)(源師仲・)源頼朝(・源希義)(頼朝の同母弟)、伊豆国へ配流(はいる)。
安元元年9月、源頼朝、北条へ。
安元2年3月ごろ、源頼朝と北条政子が結婚。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』あらすじ
第2回 佐殿の腹
2022年1月16日(日)放送
罪人・源頼朝(大泉洋)を処断しようと兵を率いて迫る伊東祐親(浅野和之)。しかし、北条義時(小栗旬)の父・北条時政(坂東彌十郎)が源頼朝をかばって対立。両勢力が一触即発の状態となる中、平清盛(松平健)を後ろ盾に相模の武士団を束ねる大庭景親(おおばかげちか)(國村隼)が現れる。一方、目まぐるしい展開に振り回される北条義時は、姉・政子(小池栄子)らの助けを受けて源頼朝と富士の山すそにいた。だがそれもつかの間、弓矢が放たれ緊張が走る・・・。

第3回 挙兵は慎重に
2022年1月23日(日)放送
治承4年(1180)4月、源頼朝(大泉洋)と引き離された八重(新垣結衣)は伊東祐親(浅野和之)の家人・江間次郎(芹澤興人)の元へ嫁がされていた。対岸の江間館を見つめる北条義時(小栗旬)。そんな折、源頼朝の叔父・源行家(杉本哲太)が北条館を訪ねてくる。怪しがる政子(小池栄子)。しぶしぶ対面する源頼朝だが、源行家は平清盛(松平健)へ反旗を翻した後白河法皇(西田敏行)の御子・以仁王(木村昴)の令旨(りょうじ)を携えていた・・・。

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