K1の創始者である石井館長にして「この人がいなければK1はなかったかもしれない」と言わしめ、その後のPRIDEも、ひいては今日のUFJもなかったであろうと言われる。
1964年、タイ・バンコクで行われた「ムエタイ vs 大山道場(後の極真会館)」の3対3対抗戦を企画したのを機に、キックボクシングの興行を手掛けるようになる。1966年、「キックボクシング」の名称を考案し、日本キックボクシング協会を設立。沢村忠を発掘して「キックの鬼」と呼ばれるスーパースターに育て上げた。またTVアニメ『キックの鬼』のオープニングテーマの作詞も担当した。
1970年、親交のあった山口洋子の説得により、歌手の三谷謙と契約したことをきっかけに野口プロモーションは芸能分野にも進出。三谷は翌年、「五木ひろし」へ改名[注 2]、3月に山口洋子作詞、平尾昌晃作曲のシングルレコード『よこはま・たそがれ』が発売され、再デビューを果たした。『よこはま・たそがれ』は65万枚に迫る売上げを記録するなど、以後、五木は野口プロモーションのドル箱となるも、1979年に独立された。
1972年10月、バンコクのラーチャダムリ通りに「野口キックボクシング・ジム」を開設。しかし、折しもタイでは学生主導で日本製品不買運動が繰り広げられており、さらに「キック・ボクシングは大いにムアイ・タイ(ムエタイ)と異なり、ムアイ・タイより数倍も猛烈で激しい」とする野口の発言などがタイ人のナショナリズムを刺激、10月15日にはジムにピストル弾3発が撃ち込まれ、翌日にも高校生と見られる一団の抗議デモが押し寄せ、ジムの大ガラスが割られる騒ぎとなった。こうした事態を受け、タイ政府は野口及び関係者をタイの治安に対して危険な人物として日本へ送還、ジムはわずか1週間で閉鎖となった。
1976年、世界キックボクシング協会(WKBA)を設立。以後、このタイトルをめぐって富山勝治 vs. ディーノ・ニューガルト、飛鳥信也 vs. ヘクター・ペーナ、新妻聡 vs. ヘクター・ペーナ、武田幸三 vs. ジョン・ウェイン・パーなど数々の名勝負が繰り広げられた
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