飯塚幸三, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3934573 / CC BY SA 3.0

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飯塚 幸三(いいづか こうぞう、1931年〈昭和6年〉6月1日 – )は日本の研究者、通商産業省技官。
東京大学工学博士。
専門は計量学。
測定器誤差と形状誤差を分離して真円度・円筒度測定ができるマルチステップ法の開発者。
15年間委員を務めた国際度量衡委員会では日本人初の副委員長にも就任し、世界計量記念日を提唱。
国際計測連合(IMEKO)では会長を務めた。
中央計量検定所、計量研究所において硬さ測定や形状誤差、物性計測など測定・計量の研究に取り組み、計量研究所所長、工業技術院長、クボタ取締役(常務、専務、副社長)を歴任。
計測の国際標準化活動にも貢献し、日本計量振興協会や計測自動制御学会では会長を、日本工学アカデミーや日本工業標準調査会では副会長を務めた。
日本計量振興協会の会長退任後も、計量や計量標準、度量衡や国際組織の歴史について講演を行うとともに、各種学協会で理事や顧問を務めた。
計測自動制御学会功績賞受賞者(2003年度)。
2015年秋には瑞宝重光章を受勲したが、2019年4月に起こした東池袋自動車暴走死傷事故により2021年9月に禁錮5年の実刑判決が確定。
それに伴い、瑞宝重光章を褫奪された。
1931年6月1日、東京府内(現・東京都中野区)で生まれる。
太平洋戦争末期は旧制中学生で、空襲により自宅を焼失している。
好きな科目は理科で、東京府立第四中学校(現・都立戸山高校)、旧制浦和高等学校(埼玉大学の前身)を経て、新制の東京大学理科1類に進学。
大学ではオーケストラに在籍し、クラリネットを担当。
工学部応用物理学科の計測工学専修に進み、卒業研究は日置隆一の元で光学に関するテーマに取り組んだ。
1953年に東京大学を卒業し、後の計量研究所である通商産業省工業技術院中央計量検定所に就職(のちに茨城県新治郡桜村、現在のつくば市に移転するが、当時は東京都板橋区にあった)。
計量研究所では各種硬さ標準の研究を手掛けることになり、ショア硬さの研究に従事(ロックウェル硬さには矢野宏が取り組んだ)。
振り子型の試験機を試作し、ハンマーや圧子の変形が影響することなど、ショア硬さの諸条件を実験的に解明した。
この間、1958年3月から1959年6月まで、政府在外研究員としてイギリス国立物理学研究所(NPL)に滞在した。
また、1967年7月開催の第4回から国際計測連合(IMEKO)の総会に参加するようになり、技術委員会でも代表委員を務めるようになる。
さらに同連合に対する日本の加盟団体であった計測自動制御学会の「IMEKO委員会」でも委員長を務めた。
今井秀孝とは微小球面の曲率半径を求める手法を開発し、1970年の英語論文は論文賞も受賞(#光計測応用も参照)。
1972年には博士論文『ショアかたさ目盛の精度向上に関する研究』を提出し、論文博士として東京大学で工学博士の学位を取得。
さらに形状誤差(幾何公差)の研究にも取り組んでいき、後藤充夫とは真円度測定や円筒形状測定に取り組み、測定器誤差と形状誤差を分離することに成功した。
(#マルチステップ法も参照。) また、部下や学生とともに物性計測の研究にも従事。
超音波により応力を測定する技術や、レーザー干渉計で材料の線膨張係数や縦弾性係数を計測する技術などを開発した。
この間3年ほど研究企画官も務め、さらに計量研究所力学部の部長を3年ほど務める。
一方で1980年から日本機械学会の質量・力計測システム調査研究分科会で主査を務め、同分科会で質量と力に関する計測法の基礎と応用をまとめた報告書を1983年に完成させている。
1983年、計量研究所の所長に就任。
所長就任に伴い、国際法定計量委員会委員やISO/REMCO(標準物質委員会)の日本代表委員も務める。
1986年2月からは国際度量衡委員会の委員を務めることになり、以後15年間委員を務め、名誉員も含めると17年間関与した。
1986年、工業技術院の院長に着任。
基礎研究の重要性を強調し、新しいNEDOの発足(「新エネルギー・産業技術総合開発機構」への改組)や新規事業導入(研究基盤整備事業、研究開発事業、国際研究協力事業)を推進。
「脳機能の解明のための基礎研究」や「生体機能のための分子論的アプローチのための基礎研究」を支援する国際ヒューマン・フ…

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