松本人志, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=62845 / CC BY SA 3.0
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松本 人志(まつもと ひとし、1963年〈昭和38年〉9月8日 – )は、日本のお笑いタレント、漫才師、司会者、映画監督、作家、コメンテーター。
お笑いコンビ・ダウンタウンのボケ、ネタ作り担当。
相方は浜田雅功。
愛称は松っちゃん(まっちゃん)。
妻は元タレントの伊原凛。
吉本興業東京本部所属。
(ペンや箸を持つ時は)左利き。
兵庫県尼崎市出身。
尼崎市立潮小学校、尼崎市立大成中学校、兵庫県立尼崎工業高等学校機械科卒業。
小・中学校の同級生には相方の浜田雅功の他に、放送作家の高須光聖がいる。
小・中学校時代のあだ名は、まっつん。
小学生の頃、父がうめだ花月の招待券を仕事でもらってくるようになり、家族で通うようになった。
これがお笑いとの出会いであり、それを機にお笑い芸人に憧れるようになった。
「その頃ぐらいから、だんだん性格変わってきた。ずっと暗い子供やった」と語っている。
小学四年生の頃、友人の伊東・森岡と3人で、トリオ「コマ第三支部」を結成。
鉄ゴマ・木ゴマ・プラスチックゴマとそれぞれ名前を付け、漫才を披露していた。
その後、伊東と二人で漫才やコントをしていた。
初めてコントに挑戦した際は「びっくりするぐらいスベった」という。
中学生の頃、伊東と浜田と3人で遊ぶことが多かったが、ある日、伊東と浜田が喧嘩したことがあり、喧嘩が終わった後、浜田が歩いてきて、「まっつん、もう行こうや」と言われ、浜田のほうについて行った。
「あの時は伊東より浜田を選んだっていうか……(中略)まあ、伊東とね、もしずーっと一緒にいたとして、伊東ともし一緒に吉本入ってたら俺はどうなってたんやろうとか考えてみるとね――その以前に、まず伊東と二人でやってると吉本には入ってなかったと思うんですよね。浜田は行動力ありますよね。(中略)「吉本に入ろうや、行こうや」って、結局僕のケツ叩いてたのはあいつなんですよ。
だから伊東とやったら、そうはなってなかったと思うんですよね……」と語っている。
1982年に小・中学校の同級生だった浜田雅功とコンビを結成し、共に吉本総合芸能学院の1期生として入学した。
当初はコンビ名を決めずに活動していたが、1983年にコンビ名をダウンタウンに決定。
関西で活動した後、1988年に『夢で逢えたら』で東京進出。
1993年から1995年にかけて、『週刊朝日』に自身のエッセイ(「オフオフ・ダウンタウン」)を連載し、『遺書』及び『松本』として単行本化された。
それぞれ250万部、200万部を売り上げ、1995年の単行本年間売上で1位・2位を独占した(トーハン調べ)。
1994年にライブ『寸止め海峡(仮題)』、1995年に『松風’95』を開催。
『寸止め海峡(仮題)』は入場料1万円で行われたコントライブで、松本のほか、今田耕司、東野幸治、板尾創路が出演した。
『松風’95』は日本武道館で行われた客が値段を決める料金後払い制で写真にコメントを言う「写真で一言」のみのライブ。
1996年、『一人ごっつ』が放送開始。
『新・一人ごっつ』、『松ごっつ』とタイトルを変えながら約2年間放送された。
1998年12月に『松本人志24時間大喜利』を放送した。
『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』『ダウンタウンのごっつええ感じ』では出演のほか、番組の企画・構成を担当した。
そのほか、『一人ごっつ』『働くおっさん人形』『モーニングビッグ対談』『人志松本のすべらない話』など、多くの番組で「企画」としてクレジットされている。
1998年、髪型を左分けから坊主頭に変えた。
1998年から1999年にかけて、ビデオ『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM』を発売。
2003年にはDVD化された。
2000年に、ドラマ『伝説の教師』に出演。
原案は松本が手掛けており、「ドラマには(友情出演以外)出ない」という姿勢だった松本の初主演ドラマである。
2001年10月4日より、ラジオ番組『放送室』を高須と共に開始し、2009年3月28日の番組終了まで約7年半に渡り放送された。
2007年、企画、脚本、監督、出演の四役を務めた映画『大日本人』を発表し映画監督としてデビューした。
日本での公開に先立ってカンヌ国際映画祭の「監督週間」に招待された。
これに伴い、2008年の東京スポーツ新聞社主催・「第8回ビートたけしのエン…
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