爆心地から最も近い場所に位置する長崎市の「旧城山国民学校」。

ここでボランティアガイドを続ける被爆者の女性は、原爆犠牲者の願いと共に、被爆した校舎や樹木の “声なき声” を、後世に伝え続けています。

◆「原爆でどんなことが起きたのか… この建物が何でも知っている」

爆心地から約500メートルの位置にある、長崎市の城山小学校。

1945年8月9日、前身の城山国民学校を原子爆弾の爆風と熱線が襲いました。

“ここで、どんなことが起きたのか…”

“声なき声” を代弁するピースガイドとして、20年以上案内役をつとめるのが、被爆者の三田村 静子さん(85)です。

(三田村 静子さん)
「“この校舎を見てください” と言うんです。これは貴重なもの。
熱線、放射線、原爆の爆風のすごさを訴えられる。
だから、この建物が何でも知っている」

あの日、長崎市上空でさく裂した「プルトニウム型原子爆弾」。

城山国民学校では、児童や教職員ら 1400人あまりが犠牲となりました。

当時3歳だった三田村さんは、爆心地から4キロの長崎市福田地区で被爆。

直後から原因不明の病に苦しみ、39歳でがんを発症しました。

一緒に被爆した姉をはじめ、めいや最愛の娘も30代の若さで命を落とし…。

以来、核兵器の恐ろしさを多くの人に語り伝えています。

城山国民学校の「被爆校舎」は、長崎原爆遺跡の一つとして、2016年に国の史跡に指定。

現在は、年間2万人以上の修学旅行生が訪れています。

(三田村 静子さん)
「ここが松山町の爆心地公園。赤い点々にしているのが、(原爆落下)中心地で爆弾が落ちたところ。
「(学校の写真は)原爆が落ちた後の上空からの写真」

今も残る被爆の痕跡、そして三田村さんの一言、一言が、核兵器のもたらす惨状を伝えます。

特に思い入れの強い “樹木の幹” が、校舎の階段を使って展示されています。

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