有名な大津事件について説明する前に、直前までの政治情勢について説明しましょう。明治時代の条約改正は、ノルマントン号事件を機に国民全体の願いとなりました。
最初に改正に取り組んだのは外務卿の井上馨でした。井上は領事裁判権をなくすため、国内法を整え、外国人判事を採用する案まで検討します。しかし「主権を侵害している」「欧化政策が行き過ぎだ」という批判を受けて辞任に追い込まれます。
次に登場したのが大隈重信です。明治十四年の政変で政府を去っていた大隈でしたが、1888年に外務大臣に就任します。大隈は条約改正に好意的な国から順番に交渉し、アメリカ、ドイツ、ロシアと改正条約の調印にこぎつけます。
国際情勢の変化が日本に追い風をもたらしました。ロシアの南下政策に対抗するため、イギリスが日本との関係改善を望むようになったのです。
大隈の後任である青木周蔵は、外国人判事を採用せずに領事裁判権の撤廃を目指し、イギリスとの交渉をほぼ成功寸前まで進めました。
その時に起きたのが大津事件だったのです。
大津事件跡碑(Wikipediaより)
天皇も動く
来日中のロシア皇太子ニコライが滋賀県大津で巡査の津田三蔵の襲撃に遭い、サーベルで切りつけられて重傷を負いました。これが世に言う大津事件です。

津田三蔵(Wikipediaより)
皇太子の訪問は国威発揚の一大イベントでしたから、失敗すれば日本は後進国扱いされ、ロシア南下の口実を与えかねません。政府は素早く報道管制を敷き、天皇自ら見舞いと謝罪を行います。
また一般市民も謝罪や見舞いを行い、自害する者まで現れ(これはやり過ぎですが)ロシア皇帝のアレクサンドル三世からは友好的な反応を得ることができました。
この事件は二つの歴史的影響をもたらしました。一つ目は司法の独立です。政府は死刑適用を望みましたが、大審院長の児島惟謙が政治的圧力をはねのけ、殺人未遂の判決を下しました。
日本の印象は?
二つ目は条約改正交渉の頓挫です。事件の責任を取って青木らが辞職し、せっかくの交渉が中断されてしまいました。

事件前に訪問した長崎でのニコライ皇太子(Wikipediaより)
また興味深いのは、一般によく言われている、「ニコライが日本人を≪猿≫と呼んで嫌った」とされる話は、司馬遼太郎の著作による誇張で、史実では否定されていることです。
ニコライ二世の日記を見ると、長崎の街を「清潔で整然としている」と賞賛し、日本人女性を好んだ様子も記されています。
また京都を「モスクワと同じ」と評し、大津事件後も日本人の謝罪姿勢に感動したと書いています。また、自分を助けた車夫二人には勲章まで授与しました。
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参考資料:
浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:Wikipedia

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