出雲大社(島根県出雲市)の神楽殿に隣接し、静かに水をたたえる「鏡の池」。かつて1匹の
柴(しば)
犬が波紋を広げたその場所は今、遠方からも「あの犬が助かった場所」と人々が訪れる、小さな幸せの巡礼地のようになっている。

 9月、5日間にわたる迷子の末、池に飛び込んでもがいていた「おうすけ」(雄)を新聞配達員の石橋貴男さん(52)が保護した。捜索には宅配業者や動物愛護団体など多くの人が参加。神々が集う場所での救助劇はSNSで話題となり、11月4日の読売新聞島根県版で詳報した。

池に飛び込んでおうすけを保護した石橋さん(右)と飼い主の巌さん(島根県出雲市で、2025年10月14日撮影)池に飛び込んでおうすけを保護した石橋さん(右)と飼い主の巌さん(島根県出雲市で、2025年10月14日撮影)

 彼が看板犬を務める出雲市のバイク店を訪ねると、そこには以前にも増して「人たらし」な輝きを放つ姿があった。こちらの姿を認めるやいなや、たちまち背中を預け、ぐいぐいと押しつけてくる。同店の店長で、飼い主の巌更奈さん(48)は、首輪とハーネスの2本のリードを手に「もう二度と離さない」と笑う。

 6月に巌さんの元へ来たおうすけは、それまで長く犬舎で過ごしていた。もとより性格は温厚だが、人間と1対1で心を通わせる時間は、彼にとって未知の領域。以前は名前を呼んでもどこか人ごとのような反応だったという。

 しかし、あの生還以来、彼の中に劇的な変化が訪れた。巌さんが名を呼べば、しっかりと耳を傾け、その瞳をじっと飼い主に向けるようになったのだ。「自分の名前を自覚したみたい。やっと、心が通じた気がする」と巌さんは
愛(いと)
おしそうに語る。

 一方、救出劇の立役者となった石橋さんは、迷子の動物の影に人一倍敏感になったという。「もし大切な家族が迷子になっても、一人で抱え込みすぎないで。周りを頼れば、きっと誰かが手を貸してくれます」。そう話す石橋さんのまなざしは、地域全体をそっと包み込む「見守りの手」へと形を変えている。

懲りる様子もなく、鏡の池で目を輝かせるおうすけ=巌さん提供(島根県出雲市で)懲りる様子もなく、鏡の池で目を輝かせるおうすけ=巌さん提供(島根県出雲市で)

 人と動物が、名前を呼び、瞳を合わせ、共に生きていく。その当たり前でいて何より尊い日常を、巌さんは「ちょんぼし幸せ」というタイトルのブログで
綴(つづ)
っている。「ちょんぼし」は出雲の言葉で「少し」の意味だ。あの日、多くの人が我が事のように祈り、手を差し伸べた善意の連鎖は、まさにこの「ちょんぼし」の幸せを積み重ねた先にあった。殺伐とした世の中に
灯(とも)
ったこのぬくもりは、明日もまた、誰かの足元をやさしく照らしていく。(豊島瞬)

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