ソニー・コンピュータエンタテインメント(現:ソニー・インタラクティブエンタテインメント)より2005年10月27日に発売されたプレイステーション 2用アクションアドベンチャー「ワンダと巨像」が、本日で発売20周年を迎えた。

 本作は、「ICO」を手掛けた上田文人氏とその開発チームによるゲーム作品。「ICO」でも描かれた幻想的かつ美しい世界が舞台となっている。

 主人公である青年ワンダは愛馬アグロと共に、命を失った少女を抱えて古えの地へやってきた。彼女に命を吹き込んでもらうよう懇願するためである。するとワンダは天からの声を耳にする。魂をとりもどすには、この地にいる16柱の巨像を倒すことが必要だと告げられた。こうしてワンダは、ワンダの他には誰もいない古えの地を巡り、巨像を探し出し、倒していくこととなる。

 本稿では、そんな「ワンダと巨像」の20周年を機に本作を振り返っていく。

【PS4『ワンダと巨像』ロンチトレーラー】

ただひたすらに巨像を倒すことだけに特化したゲーム。なのに、せつない

 本作は、広大なシームレスフィールドを愛馬アグロで巡り、巨像を倒していくゲームだ。巨像を倒す順番は決まっており、第一の巨像から第十六の巨像までを順番に倒していく。

 プレイ内容自体は非常にシンプル。ワンダが剣を高くかざすと、剣が光を放ち巨像がいる方角を漠然と示してくれるので、アグロに乗りその方角を目指して進む。そして巨像がいる土地にたどり着いたら、いよいよ巨像戦だ。

 巨像を倒すためにはまず巨像をよじ登っていく必要がある。そのためには巨像のどこかにしがみつき、振り落とされないように「握る」と「よじ登る」を繰り返し、少しずつ巨像の頂点を目指すのだ。頂点までよじ登ったら、次は巨像の弱点を剣で突いて倒す。弱点の位置は剣をかざせば光が示してくれるので(弱点はひとつとは限らない)、そこをひたすら攻撃して巨像を倒す。……という流れになっている。

 実際には巨像を倒すのはそんな簡単なものではなく、しかも巨像によっては異常に巨大だったり、滑空したり、水中を泳いでいたり、毒の霧を吐いたりと、16体それぞれに様々な特徴付けがされていた。

 巨像を倒す順番が固定化されているというところからもお察しの通り、最初の巨像は単調な動きしかしてこないが、第二の巨像、第三の巨像……と進むにつれてバトルは難しくなっていく。巨像をどうやって倒すかがひとつの謎解きのようになっており、この謎解きに気づかないと巨像を前に為す術もなかったりするのだ。

 実際筆者はこういった謎解きは割と苦手なほうで、いくつかの巨像にはとてもとても苦労したものだ。

 なお、巨像を倒すと、たくさんの触手のような黒い影がワンダの身体を侵食し、握力ゲージとHPゲージが微増する。

 この演出だけでも「巨像は本当に倒してもいいものなのか?」という不安に駆られるのだが、本作でも上田氏らしくストーリーらしいストーリーはほぼない。漠然とプレーヤーの気持ちを煽る表現だけで留めているのが見事なのである。

 巨像を倒すとワンダは最初の神殿に戻される。倒した巨像と対になる石像が破壊され、次に倒すべき巨像が示される。

 ワンダと巨像との戦いには、爽快感はかけらもない。本当に普通の人間らしいワンダが、巨像というとてつもない敵を前に一生懸命足掻くような、少々じれったささえ感じる戦いとなっている。

 なのに、この巨像との戦いひとつひとつが、今も忘れられないほど鮮烈な思い出となっているのだ。

 当時、既に社会人だった筆者は大体1日に1体の巨像を倒すくらいのペースで進めていたのだが、このペースもちょうどよかったのかもしれない。「第二の巨像」は、弱点が足の裏など厄介なところにあり、弓で攻撃するのが大変だったなぁ、とか、「第九の巨像」は間欠泉への誘導が必要でバランスを崩した巨像を上手く地面に倒さないといけなかったなぁ、「第十六の巨像」に至ってはどうやって巨像に接近すればいいのかすらわからなかった、などなど、1体ごとに色々な思い出が蘇る。

 ちなみに巨像を追い込むと流れるBGM「甦る力~巨像との戦い~」が最高に盛り上がる曲調となっており、巨像を倒していいのかというプレーヤーの不安感よりも、まるでプレーヤーがワンダ自身になったかのように「あと少し、あと少し!」という気持ちが高まり、非常にゲーム体験を高める役目を担っていた。

 そして巨像の断末魔。これがまた「最後の一撃は、せつない。」という本作のキャッチコピーを体現している。

 巨像を倒すことだけに特化した、16体の巨像を倒していくだけの内容なのに、どうしてこんなにも心に突き刺さるのかと言われれば、筆者にも未だによくわからない。上田氏の描く世界観に魅了されてしまったといえばそれまででもある。

 古えの地には、巨像以外の敵もいない。ワンダにはレベル的な概念もない。広大なフィールドの探索要素といえば、握力ゲージを上げられる「光るトカゲ」の収集と、ワンダの体力がアップする「果樹の実」を集めることくらいで(初期ステータスのままでもクリアできるので、これらの収集要素も必須ではない)、体感的にはゲームプレイの8~9割が巨像との戦いに費やされる構成だった。

 それでも「ワンダと巨像」はただ静かに独特の雰囲気を纏い、ストーリーらしいストーリーもほぼないまま、プレーヤーをこの古えの地の中に引き込んでいったのである。

究極の減算方式によるオープンワールドゲーム

 「ワンダと巨像」は、PS3ではHDリマスター版が、PS4ではフルリメイク版が発売された。プレイしやすいのは、もちろん美麗なグラフィックがさらに美しくなったPS4版であるが、あえて「PS2でもこの美しさが表現できていたんだ」と感じ入ることのできるPS2版のプレイも(まだ環境があるならば)おすすめしたいところである。

 特にPS2版は30fpsということもあり、アクションゲームとしてはどうしてももっさりとした感じもあるのだが、ただこのもっさり感は先ほども述べた「本当に普通の人間らしいワンダ」を表現するのにある意味一役買っている。そのため、筆者もこの作品に至ってはあまり一概に「PS4が綺麗だしfpsも上がっているからオススメ!」と言えない作品だなぁと感じている。

 「PS2だからこそ出せる良さ」というゲームタイトルは他にもいくつかあるが、その中には「ワンダと巨像」も入るだろう。

 最近のゲームというとシステムが複雑化する傾向にある。繰り返しになるが、本作は16体の巨像を倒すというそれだけに注力した究極の減算方式によるゲームだ。

 昨今のゲームは「とにかくやれることが多く、テキストのボリュームもたっぷり」というのが売りになっているものが多いと思うが、本作は徹底的に要素を省き、20時間ほどで遊べるゲームに仕上げてある。

 荒野、砂漠、草原、湖、古代遺跡といった幻想的な世界観を持ち、巨像戦以外は環境音だけで構成された古えの地は最初からどこまでも探索できるのだが、まだ解放されていない巨像のエリアに行っても何も起こらない。一見、それは二度手間になるような作りなのだが、逆に巨像戦に注力しがちな本作において、巨像がいない景色を拝める絶好のチャンスなのだ。

 上田氏の作品は、ゲームという形をした芸術だと筆者は思っているのだが、本作ももちろんその言葉が当てはまる。ワンダと愛馬アグロだけが存在する地は、まさに「人の手が入っていない自然」という言葉がぴったりだ。静謐で、美しく、そして孤独な古えの地は荘厳ささえ感じさせたものだ。

 何もかもが親切なゲーム作りではない。むしろストーリーは語られなさ過ぎて、だからこそエンディングを見た後は100人いたら100通りの解釈ができてもおかしくはない。だが、その解釈の幅もいろいろな考えがあって、見ていて楽しめる。そんなゲームだったと思う。

 もしもまだこの傑作をプレイしたことがない人がいたら、この20周年の機会にぜひプレイしてみてほしいところだ。

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