中央弘前駅に停車している大鰐線の電車
弘南鉄道は約16.8kmの弘南線と約13.9kmの大鰐線の2路線を有する青森県内の地方私鉄で、このうち大鰐線の2028年3月末運行休止が発表されました。弘南鉄道両線のうち、持ち堪えている弘南線全踏破を前編でお届けしましたが、後編では実質的に廃止が決まった大鰐線を全踏破していきます。
弘南線は弘前駅-黒石駅を、大鰐線は中央弘前駅-大鰐駅を結んでいます。前編でもお伝えしたように、弘南鉄道が路線を有する市町村のうち最大の弘前市でも人口は約157,000人程度で、大鰐線が走る南津軽郡大鰐町は8,044人(25年9月末現在)です。
弘南鉄道マップ(出典:弘南鉄道公式サイト)
大鰐線路線図(出典:弘南鉄道公式サイト)
弘南線路線図(出典:弘南鉄道公式サイト)
また、地方都市はマイカーが普及し、自動車を中心にしたライフスタイルが定着しています。そのため、鉄道の利用者は高校生や高齢者などと限定的です。少子高齢化が顕著に進んでいる昨今、地方の鉄道需要は細くなり、経営は厳しさを増しています。
弘南鉄道も沿線人口の減少に歯止めがかからず、今後の経営環境を見据え、大鰐線の運行継続が困難であることから、運行休止の決断に至りました。
“中央”感のない中央弘前駅 なぜ“中央”とされたのか
弘南鉄道は弘南線と大鰐線の2路線を運行している鉄道事業者です。沿線人口の減少などから長らく赤字が続いており、沿線自治体による金銭的支援でなんとかやり繰りしていました。
弘南鉄道は沿線自治体と協議した上で、利用者が少ない大鰐線を28年3月末までに休止すると発表。休止という表現を用いていますが、今後に運行を再開する可能性は低く、事実上の廃線です。
廃線となる大鰐線は、中央弘前駅-大鰐駅間を結ぶ約13.9kmの路線です。同線は大半が弘前市域を走り、奥羽本線とも並走しています。弘南鉄道の大鰐駅とJRの大鰐温泉駅は駅名こそ異なっていますが、駅舎は隣接して立ち、実質的に同じ駅として機能してきました。
一方、弘前側はJRと弘南線が弘前駅なのに対して、大鰐線は中央弘前駅です。駅名も立地する場所も異なっています。JRと大鰐線はほぼ並走していますが、乗り換えができる駅は大鰐駅以外にありません。
弘南鉄道がターミナルにしている中央弘前駅は、弘前駅から約1.4km西にあります。中央弘前駅という駅名から市街地の中心に立地しているとイメージしてしまいますが、駅前の道路は自動車・歩行者の往来が少なく、周辺も特に繁華街としてにぎわっているわけではありません。また、駅舎もこぢんまりとしていて、“中央”感はありません。
昭和の雰囲気を残す中央弘前駅
中央弘前駅と弘前駅の両駅間を直線的に結ぶ幹線道路はなく、バスでの移動もスムーズではありません。弘前駅から中央弘前駅まで歩いて移動すると、うっかり通り過ぎてしまいそうになるぐらいです。
中央弘前駅は土淵川に沿って立地
中央弘前駅は弘南鉄道の前身である弘南電気鉄道が1952年に開設しました。弘前駅の開業が1894年ですから、半世紀以上も遅れた開業です。それにも関わらず、なぜ弘南鉄道は駅名に“中央”とつけたのでしょうか? それは、かつて弘前市の中心地に位置していたからだと思われます。
中央弘前駅は弘前城の近くにあります。江戸時代に当地を治めていた津軽氏は藩庁を弘前城に置いていました。そのため、弘前は城下町として大きく発展を遂げました。
明治を迎えると県庁所在地は青森市へと移転し、近現代の青森県は青森市を中心に発展を遂げていきます。
県庁は移転しましたが、それでも弘前の人々は青森に負けないように商業の活性化に努め、教育にも力を入れました。1872年に東奥義塾が開校。同校の創立者は福沢諭吉の慶應義塾に学んだことから東奥義塾の校名がつけられました。
また、弘前には陸軍第8師団が設置されてにぎわいました。そのため、1889年には市制を施行。弘前は青森より9年早く市になったのです。そうした面から見ても、弘前が青森以上の都市だったことが読み取れます。
弘前のにぎわいは、街並みにも影響を与えました。1904年には第五十九銀行本店本館(現・青森みちのく銀行記念館)が開業。同行によって弘前市は経済を発展させていきます。
さらに1906年には弘前市立図書館が開館。図書館は優秀な人材を育てようと教育を重視する地域の考え方があったから開設されたわけですが、そうした人物が全国的にリードする都市にしていったのです。
第五十九銀行本店本館や弘前市立図書館はすでに役目を終えて、現在は両施設ともに旧が冠せられてミュージアムとして活用されています。2つの建物は、津軽藩の御用大工を務めた堀江佐吉が設計を手がけました。
堀江佐吉が手がけた旧第五十九銀行本店本館
旧弘前市立図書館は郷土文学館として活用されている
堀江は江戸期には大工として腕を奮いましたが、明治維新後に西洋建築を学びました。そして、いち早く弘前を中心に多くの西洋建築を建てていきます。これら堀江が設計した洋風建築は、弘前が激しい空襲を受けなかったことが幸いし、多くが現存しています。そのため、堀江の洋風建築は観光資源としても活用されているのです。
弘前市の旧市街地ともいえる一帯は、こうした洋風建築が立ち並ぶエリアになっています。中央弘前駅もその一画に立地し、駅の横には弘前昇天教会聖堂、裏側には赤レンガの倉庫があって西洋を感じさせます。
赤レンガ倉庫は美術館としても活用
中央弘前駅は昭和の佇まいを残している駅舎ですが、弘前城とその周囲を取り囲む弘前公園は桜の名所としても名高く、それらの風景とセットで2002年に東北の駅百選に選定されました。
時代を感じさせる駅舎に対して、駅前広場は2022年3月に供用開始したばかりです。新しくなった駅前広場ですが、現在は駅前から路線バスは発着していません。そうした事情もあり、中央弘前駅はどことなく寂しい雰囲気が漂っています。
大鰐線には学校が点在 運行休止後の通学の足は……
中央弘前駅から大鰐線の線路は南へと延びています。そして線路に沿って流れているのが土淵川です。線路と土淵川は次の弘高下(ひろこうした)駅まで、交差をしながら並走します。
弘高下駅は駅名の通り、弘前高校の下(南側)に位置する駅です。弘前高校の生徒が通学用に使っていることを思わせる駅名ですが、近隣には弘前大学のキャンパスもあります。
弘高下駅
弘高下駅から線路沿いの道がなくなり、住宅街を歩きます。次の駅は弘前学院大前です。
弘高下駅-弘前学院大前駅間を走る大鰐線の電車
弘前学院大前という駅名にもあるように弘前学院大学の最寄駅です。しかし、駅の近くには弘前大学も立地しています。弘前大学は青森県唯一の国立大学です。弘前市にとって弘前大学は県都・青森市よりも格上であるとの認識を強くする地域の誇りでもあり、シンボルにもなっている学び舎といえます。しかし、その誇らしい大学が駅名には採用されていません。
同駅はもともと西弘前駅という駅名でした。それが2008年に改称して現駅名になりました。
コープあおもり西弘店との合築した駅舎になっていて、電車を使って買い物に来る人も多そうです。こうした商業施設と合築した駅舎は地方鉄道の需要を支える存在ですが、大鰐線では弘前学院大前駅だけしかありません。
弘前学院大前駅は商業施設との合築
弘前学院大前駅から線路沿いに南へと歩き、突き当たりの道を東へ向かうと県道127号線が現れます。県道127号線は両サイドに大型商業施設が並び、いかにもロードサイトといった街並みが形成されています。県道127号線には路線バスも走っているので、大鰐線の電車よりも利便性が高いと感じている人もいるかもしれません。
県道127号線を南へと歩きながら、次の聖愛中高前駅を目指します。同駅は県道127号線から脇道を西へ入ったところに所在しています。駅にもなっている聖愛中学高等学校は名称からもわかるように、中高一貫校です。同校は先述した弘前学院大学の系列校です。こうしてみると、大鰐線は弘前学院大学と深い関係にあることが窺えます。
聖愛中高前駅
弘前学院大学の実質的な創立者でもある本多庸一は幕末期に弘前藩士として活動した後、明治期に横浜で英語を学びました。その後も英語の学習を続けるため、アメリカに留学。留学中にキリスト教の洗礼を受けました。
帰国後、本多は廃校となっていた東奥義塾を再興。その功績から塾長にも就任しますが、多くの仲間たちの協力を得て聖愛中学高等学校の前身である来徳女学校を開校しました。その後も、弘前の教育界に大きな足跡を残しています。
本多の教えを受け継ぐ弘前学院大学や系列の中学校・高校を含め、大鰐線には学校が点在しています。それらを考えると、大鰐線の電車が走らなくなった後の通学の足が心配です。電車はバスに代替されるでしょうが、降雪の多い青森県ですから、冬季は定時運行がしにくくなります。そのため、通学面での心配は尽きません。
聖愛中高前駅から県道127号線へと戻り、ひたすら南へ歩いて千年(ちとせ)駅を目指します。千年駅は県道からはずれた住宅街の中にありますが、県道から千年駅までの細い道はわかりづらく、沿線外の利用者がたどり着くには困難を要します。
途中、すれ違った郵便配達中の局員さんに「千年駅は、この道をまっすぐ進めば着くのか?」と訊ねましたが、局員さんも正確な場所を把握していないほどでした。
千年駅
こぢんまりとした千年駅の次は小栗山(こぐりやま)駅に向かいます。千年駅-小栗山駅間では大和沢川を渡りますが、歩行者は鉄道橋を渡れません。そのため、少し迂回して県道127号線を歩きます。大和沢川を渡ると踏切が現れ、その左側に小栗山駅が所在しています。
小栗山駅
ここまでは駅周辺に学校が点在し、大型商業施設などもありました。そのため、利用者がいる駅という雰囲気を感じました。
そのため、弘南線と比べても大鰐線のにぎわいが劣っているようには思えませんでした。しかし、このあたりから沿線は田園風景へと変わり、駅から人の気配が感じられなくなっていきます。
変わり映えしない景色の中では歩く距離が長く感じる
小栗山駅を過ぎると、大鰐線の線路は県道127号線から大きく離れて電車の姿は見えなくなりました。それでも県道127号線をひたすら歩き、128号線の交差点を北へ進んでいくと松木平(まつきたい)駅が見えてきます。
このあたりはリンゴ畑が多く、ホームにもリンゴのモニュメントが設置されています。リンゴのほかにも多種類の農産物を栽培しているようです。
松木平駅に入線してきた大鰐線の電車
松木平駅にはリンゴのモニュメントが設置されている
松木平駅から次の津軽大沢駅までは約1.7kmあり、その駅間は大鰐線では最大です。東京を走る山手線で最大の駅間は大崎駅-品川駅の約2.0kmです。それに比べると、松木平駅-津軽大沢駅間の1.7kmは短いのですが、道中はひたすら農地が続きます。
大鰐線の沿線には、リンゴ畑が点在
目標となるような建物などはなく、景色も変わり映えもしません。そうした道を歩いていると、数字以上に駅間を長く感じます。
津軽大沢駅は構内に車両検修所・電気管理所・変電所・保線管理所がある、大鰐線にとって重要な駅です。また、駅舎に隣接して特別養護老人ホームがあり、同施設の1階トイレは駅トイレを代替しています。ただ、そのほかに目立つ施設や商店は周囲にありません。
津軽大沢駅
津軽大沢駅は変電所や電気所が併設され、重要な駅となっている
津軽大沢駅に併設された車両基地
津軽大沢駅から側道が現れたので線路沿いを歩きましたが、すぐに側道はなくなりました。そのまま道なりに歩いていくと、小高い丘が見えてきました。丘の上に立地しているのが東奥義塾中学校・高等学校です。
同校の最寄駅は義塾高校前駅で、駅も丘の上にあります。同校は青森県内有数の名門で、開校時は弘前市の中心に学校がありました。同地に新校舎が完成したのは1987年です。学校が移転してきたのに合わせて、弘南鉄道も義塾高校前駅を開設しました。
丘の上に立つ義塾高校前駅
丘の上にある駅から高校までは、さらに坂を上っていくことになりますが、校舎の周囲には木々が繁り、外部からの騒音を遮っているような雰囲気を醸し出しています。
また、朝夕の通学時間帯は学生で駅がにぎわうようですが、駅周辺には東奥義塾以外の施設がありません。そうした周辺環境なので昼間帯は静寂に包まれ、利用者も見当たりません。
JR石川駅へ寄り道しながら大鰐町へ
義塾高校駅を後にし、次の石川駅までは丘を下ります。途中で大鰐線の踏切を渡ると、県道236号線が見えてきます。
石川駅へ行くには県道236号線を右折しますが、いったん左折してJR奥羽本線の石川駅に向かってみましょう。先述したように、大鰐線と奥羽本線はほぼ並走しています。
JR奥羽本線は複線と単線が混じり合う路線ですが、弘前駅から石川駅までは複線区間です。石川駅は弘前駅から奥羽本線で一駅目になり、通勤範囲でもありますが、駅前には商店などはありません。また、駅周辺は住宅街というほど民家が密集しているわけではなく、ポツリポツリと点在するぐらいです。
JR奥羽本線の石川駅
JRの石川駅を後にして、先ほどの分かれ道まで戻ります。そして、逆の方向へ歩いていくと奥羽本線の線路を渡ります。そのまま線路沿いを歩くと、右手に奥羽本線、左手に大鰐線に挟まれた小径があります。そこを歩いているとリンゴ畑が現れ、新品種の栽培園地であることを示す看板が立っていました。
新品種栽培農園の看板。奥に見えるのは、大鰐線の踏切
リンゴの栽培が盛んな地を実感する看板を見ながら歩き続けると、石川駅に到着します。石川駅の周辺は特に観光名所などはなく、ふらりと来街者が下車することもなさそうです。地元住民の利用がメインと思われるため、JRと同駅名でも混乱は起きないのでしょう。特に断り書きのような案内は見当たりませんでした。
石川駅
石川駅に停車している大鰐線の電車
石川駅には貨物用の側線があり、そこには工事・保線などで使用されるホキ車という貨車が留置されています。この貨車を目当てに同駅を訪れる人もいるようですが、そうしたマニアは多くはありません。駅周辺はいたって静かです。
石川駅の側線には貨車が留置されている
ここから次の石川プール前駅までに平川を渡ります。平川は全国的な知名度は決して高くありませんが、その流域は広く、市名にも採用されるほど青森県では身近な河川です。
平川を渡って、そのまま歩き続けると国道7号線が見えてきます。国道7号線となっている秋田-青森間は、江戸時代に羽州街道として整備された道でした。ただし、江戸時代の羽州街道がそのまま国道7号線になっているわけではありません。
国道7号線との合流地点には大鰐温泉の看板があり、大鰐線のゴールが近づいていることを確認できました。看板が立っていた地点から国道7号線を南下していくと、石川プール前駅に到着。
石川プール前駅
同駅は弘前市南部清掃工場の最寄駅で、清掃工場の排熱を利用した温水プールが2002年にオープンしています。それと同時に駅も開設されました。大鰐線の駅としては新しく、しかも数少ない来街者を呼び込める駅ですが、駅周辺はプール以外に目立った集客施設がありません。
石川プール前駅から国道7号線に戻って、次の鯖石駅に向けて歩き始めます。ここまでの駅は弘前市に所在していましたが、鯖石駅から住所は大鰐町に変わります。
弘前市から大鰐町へ入った地点に立つ看板
鯖石駅
鯖石駅から次の宿川原駅へも、国道7号線をひたすら南下していきます。六羽川が見えたあたりで線路沿いに小さな側道が現れ、そこを歩くと宿川原駅がありました。
宿川原駅
宿川原駅からは県道201号線を歩いてゴールの大鰐駅へと向かいます。県道201号線は先ほどまで歩いていた国道7号線と比べると小さい道路ですが、江戸時代に整備された羽州街道の一部でもあります。
羽州街道にはいくつか宿場町が整備され、江戸時代には多くの人たちが羽州街道を往来しました。そんな由緒のある道ですが、現在の羽州街道から当時を偲ぶようなものは見当たりません。
宿川原駅で六羽川は平川に合流し、大鰐駅へと歩いていくとJR奥羽本線が近づいてきました。大鰐線の線路も県道201号線に寄り添う形で並走し、2つの線路が合流すると大鰐駅です。
大鰐再生プロジェクトの一方で大鰐線が廃線
大鰐線の終点である大鰐駅は県道201号線に面しておらず、道路沿いから駅舎を視認できません。県道から少し内側に入っていくと、大鰐線の駅舎が現れます。大鰐駅は少し寂しい雰囲気の駅舎です。
大鰐線の大鰐駅
線路を挟んで北側に大鰐線の大鰐駅、南側にJRの大鰐温泉駅が立地しています。実質的に同じ駅ですが、両駅を行き来できる自由通路は設けられていません。通り抜けるには入場料を支払う必要があります。
大鰐駅に到着したので大鰐線の全線踏破はこれで終わりですが、せっかくここまで踏破したので南側のJR大鰐温泉駅にも足を運んでみます。
大鰐駅側にはスーパーなどの商業施設が立地しています。大鰐温泉駅側は温泉街といった雰囲気で、駅前広場には足湯も整備されています。
JR奥羽本線の大鰐温泉駅
大鰐温泉駅の駅前広場には足湯が整備されている。右奥に見えるのは、大鰐線用の出入り口
大鰐温泉はスキー場も整備されており、高度経済成長期からバブル期にかけて多くのスキー客でにぎわいました。駅の待合室は広々としていて、往時は団体の温泉客やスキー客でごったがえしていたことが目に浮かびます。
現在も大鰐温泉駅は奥羽本線の特急列車が停車しますが、レジャーの多様化や各地の観光地が台頭してきたという要因もあり、大鰐温泉のスキー場は以前の輝きを失っています。
石川駅-大鰐温泉駅間を走る奥羽本線の特急列車
また、大鰐温泉にとって過疎化もにぎわいを喪失させる要因になっています。昨今、地方創生の流れもあり、それらを受けて大鰐温泉の再生プロジェクトが始動しています。同プロジェクトでは来街者などの関係人口に着目し、これらを増やすことで大鰐温泉に活気を取り戻そうとしています。
そうした中で、2027年度末に大鰐線が廃線になってしまうことは大きな痛手になることは間違いありません。鉄道がなくなる街は、今後どのように地域活性化していけばいいのでしょうか? 大鰐線の沿線や大鰐温泉の今後は、過疎という問題や鉄道の廃線危機に直面している自治体にとって注目されることになるでしょう。

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