ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2025.10.21 11:11

◇三豊犠牲者追悼空間、現場から6キロも離れて

それに対し、技術災害は社会の信頼と結束を解体し、共同体を分断する。加害者の責任の所在をめぐって、気の遠くなるような法廷争いが続く。その過程で、複雑な技術特性ゆえに責任が分散し、ふっと消えてしまうことも多い。技術災害は単なる技術的失敗ではなく、人間が作ったシステムの倫理的・社会的脆弱性を露呈させる。こうした理由から、技術災害は現代社会が直面している構造的責任と回復力の問題を映す鏡になったりもする。

大規模な惨事を経験しながら、韓国社会の安全基準を少しずつ高めることができたのは、災害の生存者と遺族たちの苦しい闘いと努力のおかげだった。私たちは彼らの犠牲の上に築かれた「災害共同体」の一員として、その意味を今一度胸に刻まねばならない。それはすなわち「記憶」だ。急速な発展と開発が災害をもたらしたように、災害を記憶から消し去る速さにおいても韓国は世界一ではないだろうか。時に、まるで隠したいかのように振る舞うこともある。聖水大橋が崩壊した後、あまりにも惨たらしい惨状を後世に伝えるべきだという声もあった。「真っ二つに裂けた聖水大橋をそのまま保存しよう」「橋の残骸をタイムカプセルに入れて後世に残そう」「残骸を集めて作った彫像をソウル市庁前の広場に建てよう」といった主張も出た。

現在、この事件を記憶する造形物は犠牲者慰霊碑が唯一だ。聖水大橋北端のインターチェンジ(IC)にある慰霊碑は、漢江北路の間にある孤島のような空間に設けられている。徒歩でも車でも近づきにくい。地図にも記されていないため、市民のほとんどはここに慰霊碑があることすら知らない。犠牲者の冥福を祈り、惨事の再発を防ぐために建てられたというのに…。

三豊百貨店犠牲者慰霊塔は、事故現場から6キロ離れた良才(ヤンジェ)市民の森にある。当時ソウル市は事故現場に慰霊塔を建てようとした。しかし地価の高さや住民の反対に阻まれ、惨事とは何の関係もない場所に記憶の空間が作られた。大規模な惨事は絶えなかったが、記憶のための空間を設けることに、韓国社会はあまりにも冷淡だったのではないかと思う。2001年の9・11テロ発生後、米国ニューヨークの世界貿易センター跡地はそのまま追悼の空間となった。崩壊現場「グラウンド・ゼロ」には2つの人工池が造られ、池の周囲を囲む追悼碑には犠牲者2799人の名前が刻まれている。

追悼空間は犠牲者や遺族だけのための場所ではない。市民もまた、国家的惨事を記憶し共有しなければならない。「記憶」のもう一つの方法として、たとえ長い時間がかかっても、災害の調査を徹底して行い、正しい「白書」を残すことがある。「記憶」の共有は、安全な社会のための最低限の努力だ。すべての災害は、死者が生者を救った事件ではないだろうか。私たちは皆、生者と犠牲者の連帯によって作られた「災害共同体」の一員だからだ。

ホン・ソンウク/ソウル大学科学学科教授

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