ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2025.10.10 14:53
2025韓国プロ野球のポストシーズンが始まった。国内外で激変が見られる中でも今年、野球に対する熱気はさらに高まった。シーズン歴代最多観客となる1231万人を記録した。今年で44年目を迎えたプロ野球はもう老若男女が楽しむ韓国人の代表的な余暇文化として定着した。これほどの日常の解放区もない。そのスタートはどのようなものだったのか。
1981年9月のソウル新羅(シンラ)ホテル。青瓦台(チョンワデ、韓国大統領府)教育文化首席秘書官イ・サンジュ氏、野球解説者イ・ホホン氏、元大韓野球協会専務イ・ヨンイル氏の3人が会った。ソウル大商学部の同窓生のイ・ヨンイル氏とイ・ホホン氏は大韓野球協会で仕事をした野球行政家であり、イ・サンジュ氏はソウル師範大出身でイ・ヨンイル氏を先輩と呼んだ。
テーブルにはA4用紙18ページ分の「韓国プロ野球創立計画書」が置かれていた。同年3月に発足した第5共和国の青瓦台の要請でイ・ヨンイル氏とイ・ホホン氏が作成した文書だった。イ・サンジュ氏はその中で地域縁故制が気にかかった。地域の傷を抱えて誕生した第5共和国は国民の和合を目的にプロ野球・プロサッカーなどを計画した。にもかかわらず地域を前面に出せば地域間の葛藤が深まると心配した。イ・ヨンイル氏は専門家らしくスポーツの本質と属性をよく把握していた。イ・ヨンイル氏は郷土愛を刺激して結局は愛国心を高める装置だと説得した。当時盛り上がっていた高校野球の人気を背に地域縁故制が必要だと強調した。
1カ月後、「計画通りに推進する」という青瓦台の許諾を受けた。イ・ヨンイル氏はプロ野球団を運営する企業と接触し、6球団構図を準備した。1981年12月11日、韓国プロ野球委員会創立総会がソウルロッテホテルで開かれた。初代総裁には全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領がかつて上官としてもてなしたソ・ジョンチョル元陸軍参謀総長が推戴された。冷酷な軍部政権と友好的な関係を持つことができる選択だった。
◆スポーツ・スクリーン・セックスに視線を向かわせる「3S政策」
政府レベルの配慮は初期のプロスポーツの定着に大きな役割をした。全斗煥大統領は1982年1月20日、プロ野球球団オーナーを青瓦台に呼んだ。企業総帥の球団オーナーに欧州サッカー、米国プロ野球の例を挙げながら、競技がどのように国民的イベントとして定着したかを説明した。全大統領は「選手らは競技場の外でもスターにならなければいけない。地方球団の選手は(実業野球時代のように)ソウルに居住するのではなく縁故地に移住し、地域のファンの近くで過ごさなければいけない」という指針を出した。また、同席した李奎浩(イ・ギュホ)文教部長官に「文化公報部長官に話してテレビ中継を積極的にするべき」と指示した。
1982年3月27日、ソウル東大門(トンデムン)運動場。MBC青竜とサムスン ライオンズの開幕戦で韓国プロ野球が第一歩を踏み出した。全斗煥大統領はスーツ姿で始球式を行った。試合は幸運ナンバーの7-7で拮抗し、延長10回裏にイ・ジョンド(MBC)のサヨナラ満塁弾というドラマを生んだ。大韓民国のプロスポーツの始まりはこのように劇的だった。プロ野球はその後、韓国大都市を一つの日程表でまとめた。6球団が全国で「私たちのチームが勝て」を叫び、野球は学校、会社、市場、バス、地下鉄で公用語になった。
草創期のプロスポーツは政権が方向を定めた。彼らの3S(スクリーン、スポーツ、セックス)政策構想の中、スポーツは一つの統治道具と見なされた。しかし彼らが投げたボールが「統治」の一つの方向に向かうことはなかった。プロ野球の開幕戦のように劇的な勝負がファンを魅了し、民族性も相まって熱いファンたちが熱気をもたらした。
プロ野球は庶民の生活を慰めた。野球場は統制の空間を越えて日常の解放区となり、毎日繰り返される日常のリズムに浸透した。プロ野球の人気は翌年、プロサッカーとプロシルム(相撲)の誕生につながった。その後、バスケット・バレーボールなどでもプロ化が進んだ。2023年基準で韓国スポーツ市場は約81兆ウォン(約8兆7000億円)と前年比で3.7%増えたが、このうちプロスポーツ試合の売上増加率(20.6%)が目立った。
プロスポーツは社会と時代を反映する。経済が拡大して球団が10チームに増え、1・2軍システムも定着した。「能力による報酬」は社会全般のプロ意識にもつながった。政治的含意にも触れないわけにはいかない。例えば第5共和国はプロ野球のスタート後、5月18日には光州(クァンジュ)でヘテ(起亜の前身)のホーム試合を行わないことにした。光州市民が動揺するかもしれないという理由だった。これは1986年5月18日に光州で予定されていた試合を全州(チョンジュ)に変更するよう調整した国軍機動部隊司令室の文書が確認されて明らかになった。ヘテは1980年代に5回優勝してチャンピオン王朝を築いたが、1982年から99年まで5月18日に光州でホーム試合ができなかった。ヘテはその期間、アウェーで行われた11回の「5・18競技」で9勝した。当時のヘテ王朝の主軸だったキム・ソンハン氏(元起亜監督)は「5月18日には地域民の痛みを和らげるという覚悟で選手たちが試合に臨んだ」と回顧した。
韓国プロ野球は米国プロ野球や欧州サッカーのように経済的構造と産業インフラ(中継権など収益基盤の構造、球場運営権の民間所有など)を備えて出発したのではなかった。政権主導で推進されたからだ。スタート当時、スポーツ球団は企業広報の一環、社会貢献的価値でその存在理由を代弁した。難しい環境の中でも政権の要求で参加するケースも多かった。
プロスポーツはこのように政権の考慮で始まったが、いかなる政策よりも大きな動力は大衆の関心でありファンの熱気だった。直観文化、応援歌、遠征応援、ファンクラブなど他国ではあまり見られない大韓民国スポーツ応援生態系は上からではなく下から形成された。一例として韓国チアリーダーが台湾プロ野球チームに次々と進出し、韓国プロ野球を観戦する旅行商品も登場した。
<創刊企画「大韓民国トリガー60」㊳>第5共和国の統治手段だったプロ野球、日常の祭りに「ホームラン」(2)
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