2025年9月6日、第36回サンパウロ・ビエンナーレが開幕。1951年に創設された本展は、ヴェネツィア・ビエンナーレに次ぐ長い歴史を誇り、サンパウロはグローバル・サウスにおける現代アートの拠点として重要な役割を担ってきた。本稿では、ビエンナーレ開幕週のハイライトを通じて、ブラジルから見た現代アートシーンを捉える。
会場の外ではテレサ・アンコマー(Theresah Ankomah)が、ガーナの職人とともに制作した椰子のタペストリーが出迎える。
芸術を通じて、人類の在り方を再考する
今回、サンパウロ・ビエンナーレの総合キュレーターを務めるのは、カメルーン出身のボナベンチュラ・ソー・ベジェン・ンディクン。展覧会を「ブラジルという視点から世界を考え、聴き、見て、感じる」場として位置付け、ブラジルの歴史や文化の多層性と、複雑化する世界を重ね合わせた。
キュレーションチーム © João Medeiros / Fundação Bienal de São Paulo
展覧会タイトル『すべての旅人が道をたどるわけではない ― 人類の実践について(Not All Travellers Walk Roads – Of Humanity as Practice)』は、アフリカ系ブラジル人作家コンセイサォン・エヴァリストの詩に由来する。「人類の実践」とは、人間同士、あるいは自然やあらゆる生き物との共生の在り方を探求する営みを指す。戦争や紛争、環境破壊、難民や移民の問題、AIの発展に伴うリスクなど人類が直面する危機的状況を背景に、本展では、そうした課題に対するアートの役割を示すという意図が込められている。
さらに「エスチュアリー(河口)」が概念的かつ空間的な比喩として用いられた。淡水と海水が混じり合い、多様な生命を育む河口のように、人間や文化も交わり、変化しながら共存する。展示会場であるオスカー・ニーマイヤー設計のモダニズム建築は、この比喩を体現するかのようだ。壁を排した吹き抜けと曲線的なスロープは、水の中を歩くような空間を生み出し、来場者が作品に出会い、歴史や文化をゆっくりと紐解く体験を促す。
画家、音楽家、作曲家、詩人、研究者など多岐にわたる文化領域で活躍するタンカ・フォンタ(Tanka Fonta)がビエンナーレのために制作した作品。3フロアにヘッドフォンが設置され、テーマに合わせて彼が作曲した3つのシンフォニーとともにビジュアルインスタレーションを鑑賞するという作品。
人類共通の記憶を喚起する、フェミニズム的要素
会場の吹き抜け部分には、ローラ・プロヴォスト(Laure Prouvost)による布製のシャンデリアが漂う。クラゲのように動くそれを下から見上げると、彼女の代表的モチーフであるガラスの乳房が現れる。このインスタレーションはエヴァリストの詩に着想を得ており、オルタナティブな「道」、異なる知覚や存在の在り方を探るという試みを象徴している。
有機的な動きを持ったローラ・プロヴォスト(Laure Prouvost)の作品。
女性や身体をめぐるモチーフは会場の随所で展開された。カーラ・ゲイェ(Carla Gueye)はウォロフ族の誘惑儀式に基づく彫刻と映像を発表し、ナジャ・タクアリー(Nádia Taquary)は祖先の女性を象ったブロンズ彫刻と、鮮やかなオレンジ色のビーズの簾を組み合わせたインスタレーション『イロコ:宇宙の木』を展示した。
カーラ・ゲイェ(Carla Gueye)はウォロフ族の誘惑の儀式に着想を得た彫刻と映像作品を発表した
ナジャ・タクアリーによる『イロコ:宇宙の木』。イロコ(Ìrókó)とはブラジルで伝承されているアフリカ系宗教の守護神の名前で、悪の解き、嵐の後の静けさや生命の必然性を象徴する。
またリディア・リスボーア(Lidia Lisbôa)は、裂いた布を使ったかぎ針編みのテキスタイルを、天井から吊り下げた《Tetas que deram de mamar o mundo(世界を育んだ乳房)》を制作。重力に従って自然に垂れ下がるその形は、母性の普遍的記憶を呼び起こすと同時に、解放感や豊かさを体感させる。同時に、肌の色の多様さやボディイメージに関する支配的なナラティブの抵抗、女性性の社会的意義、あるいはジェンダーロールの問い直しといった社会課題も喚起する。彼女は日常素材や伝統技法に、アフリカ系ブラジル人としてのルーツやフェミニズム的視点を重ね、自伝的物語を社会性を帯びた現代アートへと昇華してきた。サンパウロ市内のギャラリーや美術館でも広く取り上げられており、その注目度の高さがうかがえる。
リディア・リスボーアの作品が来場者を包み込む。
日常素材に新たな生命を吹き込み、資源搾取と消費社会を問う
消費社会や資源搾取を批判する大型インスタレーションも本展の焦点だ。マルレーネ・アルメイダ(Marlene Almeida)は、色調の異なる土の色素を塗ったキャンバスの帯を天井から吊り下げた彫刻的な作品『Terra viva(生きた大地)』と、過去55年かけて実施したブラジルの土地研究の成果を反映させ、土壌サンプル、植物樹脂、鉱物、実験器具、フィールドノートを展示した『Museu das Terras Brasileiras(ブラジルの土壌博物館)』を発表。ブラジルの地質的変化を可視化し、自然と創造の持続可能性を問いかけた。
マルレーネ・アルメイダによる「Terra viva(生きた大地)」。柔らかなキャンバスでできた作品だが火山のような存在感を放つ。
ブラジルの土壌研究が美しく展示されたアルメイダのインスタレーション。
ジンバブエ出身のモファット・タカディワ(Moffat Takadiwa)は廃棄プラスチック部品を編み合わせたタペストリでできた巨大なノアの箱舟を制作。古いパソコンのキートップ、プラスチック容器のフタ、歯ブラシのブラシ部分といった、使い捨て消費社会を象徴するプラスチック部品が丁寧に分類され、再結合されることで、芸術素材へと生まれ変わる。鑑賞者はトンネル状の作品をくぐり抜ける体験を通じて、あり触れた日用品がいかに貴重な資源であるかという事実を再認識させられる。
モファット・タカディワのインスタレーション。
またロンドンで活躍するブラジル人作家、アントニオ・タルシス(Antonio Társis)は、分解されたマッチ箱の立体コラージュで構成されたタペストリーと、炭や金属といったエネルギー資源を用いたサウンドを組み合わせた大型インスタレーションを発表。落下する炭が太鼓を鳴らす仕掛けを取り入れ、労働搾取や自然破壊の衝撃を象徴した。
マッチ箱、炭、太鼓などを用いたタルシスの作品。
文化やアイデンティティの流動性を示したアーティストたち
先住民、ヨーロッパからの入植者、奴隷として連行されたアフリカ人の記憶が折り重なるブラジルの歴史を背景に、今回の展示では、散らばった大陸や分断された国という単位ではなく、「関係性やつながり」で世界を再認識する試みが強調された。参加した125組のアーティストやコレクティブは、国境を越えて活動する「ボーダーレス」な存在で、多層的、流動的なアイデンティティを持つ。
たとえば彫刻家ケンジ・シオカワ(Kenzi Shiokava)は、ブラジル生まれでの日系人だが、10代なかばでロサンゼルスに移住し、以後黒人のアートコミュニティと深いつながりを持ちながら活動を続けたアーティストだ。一方、ドイツを拠点に活動するレイコ・イケムラ(Leiko Ikemura)は、三重県に生まれ、70年代にスペインに移住。スイスを経て1980年代前半よりドイツを拠点に活動する。彼らは「日本人アーティスト」という単純な枠に収まらず、あるいは型にはめるような単純化された解釈に抗い、移動と文化的交差を通じて新たな居場所を生み出してきた。
ケンジ・シオカワの彫刻作品。木製の仮面や彫刻といったアフリカ伝統美術とのつながりも感じられる。
レイコ・イケムラの絵画。© Levi Fanan/Fundação Bienal de São Paulo
モーリタニア出身でセネガル、フランス、ベルギーを拠点にするアメディーン・カン(Hamedine Kane)も、自身の移動の体験をもとに国境や文化の流動性あるいは関係性に重点を置く。ビエンナーレでは、ブラジルのサンパウロとサルバドールにおける調査を経て、乱獲、大西洋奴隷貿易の記憶、黒人による知的創造の成果を組み合わせたインスタレーション『Les Ressources: Acte-#2(資源:第2幕、2025)』を発表。桟橋を模った台の上に、漁具や植物、布、思想家の著書などを並べ、大西洋を介して結ばれた黒人たちの歴史と文化の断片を提示した。
アメディーン・カンのインスタレーションと、開幕週に開催された朗読と音楽を融合したパフォーマンス・アート。セネガルで司書学を専攻したカンは、知的創造やそのアーカイブを重視し、本をアート素材や題材に取り入れる。
市内のアートスポットもビエンナーレの盛り上がりを後押し
ビエンナーレ会場だけでなく、サンパウロは芸術鑑賞の場が非常に充実している。それぞれの場所で、ビエンナーレに参加している作家たちの異なる表現方法を鑑賞することができたのは大きな収穫であった。以下、今回筆者が巡ったアートスポットのいくつかを紹介する。
サンパウロ州立美術館ピナコテカ(Pinacoteca de São Paulo)
1905年に設立されたサンパウロで最も歴史のある美術館。3つのうちのメインの建物では、解説とともに作品がテーマ別に展示されており、わかりやすい構成になっている。コンテンポラリーアートに特化した棟では、ビエンナーレに参加するビジュアルアーティスト、ジュリアナ・ドス・サントス(Juliana dos Santos)の個展が展開。彼女は「チョウマメ」の青い花を用い、ブラジルにおけるブラック/アフリカ系ディアスポラの経験を表現する。青色はアフリカ大陸の藍染の伝統や、アメリカ黒人が生んだ音楽「ブルース」と呼応する。
ピナコテカにおけるジュリアナ・ドス・サントス個展の空間。
ビエンナーレで展開されたドス・サントスの大規模なインスタレーション。
SESC Pompéia(セスキ・ポンペイア)
SESC(セスキ)とは1946年に設立されたブラジル商業連盟社会サービス(Serviço Social do Comércio)の略称で、商業・サービス業界からの社会保険融資納付金を財源に展開される、全国規模の総合文化センター群のことを指す。サンパウロ州だけでも40ヶ所以上の拠点があり、ジムやプールなどのスポーツ施設、劇場、カフェテリアから歯科まで充実した設備があり、市民は無料あるいは格安で利用できる。
SESC ポンペイアは、ブラジルで活躍したイタリア出身の建築家リナ・ボ・バルディ(Lina Bo Bardi)が設計した施設としてよく知られており、大型スポーツ施設、アリーナ形式の劇場、陶芸や裁縫など「ものづくり」の実践も可能。
筆者の訪問時、SESC ポンペイアのギャラリーではアフリカとブラジルで活躍する女性のビジュアルアーティストに特化した展覧会が開催。先述のリスボーアのテキスタイル作品や、同じくビエンナーレに参加するジェ・ヴィアナ(Gê Viana)のコラージュ写真が展示されていた。
SESC ポンペイア敷地内の道には「公共の場」というメッセージ。この場で展覧会を開催したスペインの作家アントニ・ムンタダスの作品。誰でも歓迎するというSESCの姿勢が表れている。
SESC ポンペイアは市民のための創作スペースが充実。
SESC ポンペイアでのリディア・リスボーア作品。
SESC ポンペイアで展示されたジェ・ヴィアナ(Gê Viana)のコラージュ作品。
ジェ・ヴィアナ(Gê Viana)のビエンナーレでのインスタレーション。
画廊 アルメイダ&デール(Almeida & Dale)
1998年にオープンし、現在サンパウロ市内に3拠点を持つギャラリー。ガーナ系アメリカ人キュレーターのラリー・オセイ=メンサ(Larry Ossei-Mensah) が手がけた企画展では、アフリカ人とアフリカ系ブラジル人のアーティストの視覚的な共通点に焦点を当て、アフリカとブラジルの歴史と文化のつながりを示した。ビエンナーレに参加するモファット・タカディワ、アントニオ・タルシス、リディア・リスボーアや、ブラジルを代表するアフリカ系作家のフーベン・ヴァレンチン(Rubem Valentim)、ソニア・ゴメス(Sônia Gomes)、シドニー・アマラウ(Sidney Amaral)などの作品を取り上げた。
アルメイダ&デールで展開されたアフリカとブラジルをつなぐ展覧会『The Fabric of Being』
サンパウロ・ビエンナーレは、会期を例年より約1か月延長し、来年1月11日まで開催されている。世界最大の日系コミュニティーを有し、日本とも深い歴史的つながりを持つブラジル。地理的な距離はあるものの、芸術を通じて世界的な潮流を体感できるこの機会に、訪れてみてはいかがだろうか。
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本文では紹介しきれなかったアーティストの作品を一部ご紹介:
カメルーン出身のアジャニ・オクプ゠エグべ(Adjani Okpu-Egbe)の作品。2020年にカメルーンで起きた虐殺を題材に「棚」に積むというやり方で物語を記録している。
黒人そのものを描くのではなく、抽象的な表現で黒人性を表現する手法を用い、国内外で評価されるフランク・ボウリング(Frank Bowling)の作品は会場随所で展開された。息子のベン・ボウリングが解説するツアーも。
ナイジェリア出身の芸術家オトボン・ンカンガ(Otobong Nkanga)は、人類と自然要素・環境との関係性を探求する彼女の継続的な取り組みを凝縮したタペストリー作品を展開。深海から地上までの3段階を描いたシリーズが各階に展示され、会場空間を結びつける縦軸として機能した。
記憶や欲望の断片を映像化するという手法に取り組むモロッコ人アーティスト、ライラ・ヒダ(Laila Hida)の作品。解説文には「作品を理解することよりも、そこに身を置くことを求める」とある。
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Photo by Maki Nakata(一部提供写真)
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Maki Nakata
Asian Afrofuturist
アフリカ視点の発信とアドバイザリーを行う。アフリカ・欧州を中心に世界各都市を訪問し、主にクリエイティブ業界の取材、協業、コンセプトデザインなども手がける。『WIRED』日本版、『NEUT』『AXIS』『Forbes Japan』『Business Insider Japan』『Nataal』などで執筆を行う。IG: @maki8383
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