パッカード・クリッパー
『クリッパー』の名を冠した最初のモデルは、1941年4月から生産開始されたが、米国が第二次世界大戦に参戦した直後の翌年2月、政府命令により民間用自動車生産がほぼすべて停止したため、短期間での生産終了となった。それでも重要なモデルでることに変わりはない。パッカードは保守的なボディスタイルでは成功が望めないことを悟り、フロントフェンダー一体型ヘッドライトをはじめとする現代的なデザインを考案した。
平和が戻るとクリッパーの生産は再開され、1956年には独立したブランドとして扱われるようになった。フォードやゼネラルモーターズ(GM)など、他社は新ブランド創出に積極的だったが、パッカードがブランドを立ち上げたのはこの時だけだった。
パッカード・クリッパーパッカードと戦争
第二次世界大戦中、パッカードは他社と同様に生産ラインを転換し、軍需品の生産に注力した。パッカードは主に軍用V12エンジンの生産に専念していた。その生産台数については諸説あるが、ライセンス生産でロールス・ロイス・マーリン航空エンジンを約5万5000基、自社設計の船舶用エンジンを約1万3000基、さらに不明瞭ながらおそらく4000基を超える船舶用トランスミッションを生産したと言われている。
マーリンエンジンはGM製のP-51マスタング戦闘機の性能を飛躍的に向上させた。当初はアリソン製エンジンを搭載していたが、ロールス・ロイス設計のエンジンは高高度での性能が格段に優れていた。ドロップタンク(増槽、追加の燃料タンク)の使用と相まって、1944年春以降の欧州戦線で連合国が制空権を獲得する一助となり、事実上ナチス・ドイツの敗北を決定づけたのである。
パッカードと戦争パッカード200と250
パッカードは1951年にラインナップを大幅に見直した。その年に導入された新型車の中で最も低価格だったのが200である。1940年代後半のパッカード(しばしば「バスタブ」と揶揄された)よりはるかにモダンなスタイリングを持ち、お馴染みの直列8気筒エンジンの4.8L版を搭載していた。250もほぼ同じ設計だが、5.4Lエンジンを搭載し、ボディスタイルが若干異なっていた。
両モデルともウルトラマティックという自動変速機が用意されていた。これは当時としては珍しくパッカードが自社開発したもので、外部サプライヤーから調達したものではない。200と250は1951年と1952年モデルイヤーのみこの名称で販売された。その後はクリッパーという名称で販売されるようになった。
1951年 パッカード250コンバーチブル
画像 現存する希少なウッドボディ車【パッカード110ステーションワゴンを詳しく見る】 全12枚
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