ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2025.09.25 14:03
韓国人は米で力で生きる。米は我々に置き換えることのできないエネルギー源だ。残った米の処理をめぐり論議がある最近だが、韓国史で米が十分に確保できた時期はほとんどなかった。「子どもよ、走るな。腹がへる」。歌手チンソンの「ポリコゲ(春窮)」の歌詞だ。「空き腹を押さえて水1杯、腹を満たしたその歳月」に対する悔恨だ。わずか半世紀前の風景だ。当時はまだ真っ白な米飯一杯が大きな喜びであり、ぜいたくだった。
韓国人に米はいつも不足していた。解放後にも腹をすかせる人が多かった。これを大きく変えたのが「奇跡の種籾」だった。それは統一稲だ。南北統一の念願を込めた名称だが、統一稲は「空腹からの解放」という意味で、我々の日常を180度変えたメガトン級トリガーだった。1970年代のセマウル運動の真ん中にも統一稲があった。
71年2月5日、青瓦台(チョンワデ、大統領府)で米の新品種IR667(統一稲)の品評会が開かれた。朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領、各部長官ら約40人が集まった。朴大統領は、米の色は「良い」、粘り気は「普通」、味は「良い」に丸印を付けた。無記名調査だったが大統領が署名までした。同席した閣僚らも「問題はない」と評価した。味が良くないため消費者がほとんど目を向けなかった統一稲が70年代に緑色革命を起こす主役に浮上した決定的な瞬間だった。その1カ月前、金鶴烈(キム・ハクリョル)副首相(経済企画院長官)が「誰がおいしくないというのか。それは腹を満たした人たちだ」と語調を高めたりもした。
◆許文会教授と金寅煥庁長の努力
統一稲の開発は当代の切迫した課題だった。慢性的な米不足の問題を解決しなければ安定的な成長が不可能な状況だった。1964年、中央情報部がエジプトから密かに持ち帰った「煕農1号」が食糧難の解決者として注目されたが、韓国の風土とは合わず完全な失敗に終わった直後だった。
統一稲は民・官・学の努力の結晶だ。先頭で引っ張ったのが指導者のリーダーシップなら、これを後押ししたのは学界と一線公務員の献身だった。特に2人のパイオニアがいた。最初の主人公は許文会(ホ・ムンフェ)ソウル大農学部教授(1927~2010)だ。IR667という韓国現代農業の最高の成果を上げた。
IR667でIRは1960年に米国がフィリピンに設立した非営利機関の国際稲研究所(IRRI)を、数字667は667回目の交配で得た稲を意味する。64年からIRRIで2年間研究した許教授はIR92から始めてIR1300まで計1209の組み合わせを作り出した(イ・ワンジュの『実録統一稲』)。目標はただ一つ、韓国人の空腹を満たす多収穫品種の開発だった。その一つが統一稲IR667だ。1209回の挑戦の結実だった。その後、IR667を改良した後続品種が相次いで生まれた。
統一稲の誕生は涙と血の汗の二重奏だった。韓国では稲を年に一度しか植えられないため、三毛作が可能なフィリピンまで新品種の種籾を飛行機で運んだ。いわゆるシャトル育種(Shuttle breeding)だ。より画期的な成果は結実が不可能と考えられたインディカ(東南アジア一帯の米)系統とジャポニカ(北東アジア一帯の米)系統の組み合わせに成功し、品質・収穫量ともに優秀な前代未聞の品種を生み出した点だ。それまで韓国の米はジャポニカ米の一色だった。インディカ米はジャポニカ米より質が落ちるが、背が低くて倒れにくく収穫しやすい。
許教授が統一稲の苗床を用意したとすれば、金寅煥(キム・インファン)農村振興庁長(1910~89)は田植えを主導した。歴代最長寿(12年)の金寅煥農村振興庁長は朴正熙大統領の信任で統一稲神話の現場を守った。71年に国内に初めて紹介されたIR667はその後、気候・風土・疾病などの難題を乗り越え、米自給自足100%という至上目標を達成することになった。政府は統一稲を市場価格より高く買い入れ、全国に農村指導員を派遣し、統一稲の普及に総力をあげた。
<創刊企画「大韓民国トリガー60」㉝>1209回の挑戦が生んだ「奇跡の種籾」、空腹からの解放(2)
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