都市から地方への移住・定住を促進するため、総務省では「地域おこし協力隊」事業を推進している。隊員は、地方自治体の委嘱を受け、地域ブランドの開発やPR、観光振興、農林水産業などの地域貢献活動を行う。大分県中津市で、ブランドかき「ひがた美人」の養殖業を担う地域おこし協力隊の小川夫妻を取材した。移住への決断、そして現在の暮らしとは?



コロナ禍をきっかけに人気そば店を閉じて移住を決意

大分県中津市沿岸に広がる「中津干潟」は、約1350haの広さを誇る日本三大干潟の一つ。ここでかきの養殖に励むのが、地域おこし協力隊の小川亮さん(50)と妻の玲香さん(45)だ。着任したのは2023年12月。夫婦そろって協力隊になり、東京から移住してきた。


「大分県漁業協同組合」中津支店の支店長代理、林智洋さんによれば、中津干潟はもともと日本有数のアサリの産地。ところが、環境や気象の変化などから漁獲量は減少の一途をたどり、それに代わる産業として導入されたのが“かき養殖”だという。つまり、かき養殖は中津市の未来を背負う重要な事業なのだが、全国の水産業がそうであるように担い手不足が課題になっている。「地域おこし協力隊はまさに救世主。漁協としても大きな期待を寄せています」と林さんは語る。


もっとも小川さん夫妻にとって、かき養殖はおろか、水産業自体も初めての経験だ。


それまでは東京都世田谷区で「蕎麦 シカモア」という店を営んでいた。そばを打ち、料理をつくるのは店主の亮さん。玲香さんは女将として接客にあたり、仕込みの手伝いや経理までこなしていた。そば店には珍しく深夜まで営業する店は連日大盛況。雑誌やテレビに取り上げられることも多かった。そんな二人に転機をもたらしたのはコロナ禍だ。


亮さんは「休業や時短営業で飲食店にはつらい時期でしたが、二人とも体調がよくなったんです。思えば、店を閉めて家路につくのは夜中の2時、3時。無理をしていたと痛感し、別の営業形態を考えようかと妻と話すようになりました」と振り返る。


このときふと浮かんだのが、中津市にある玲香さんの祖母の家だ。祖母が亡くなり空き家になってからも、管理のために二人でちょくちょく足を運んでいた。


「ぶどう畑が隣にある祖母宅はとても静かで、庭の草刈りをしていると無心になれる。中津は海が近くて環境はいいし、食が豊かでおいしい店もある。移住という選択もある気がしました」と亮さん。この考えを聞いた玲香さんも「夫の故郷は新潟で私は福岡。お互いに東京生まれではないし、店を広げる気持ちもない。だから、東京にこだわらなくてもいいんじゃない?」と背中を押した。


聞けば、これに似た場面は結婚して間もないころにもあったという。亮さんがかつて身を置いていたのは音楽業界。制作に携わって10年がたったころ、「自分の手でものをつくる仕事をしたい」とそばの世界に飛び込んだ。この時も玲香さんは動じることなく夫の決断を応援した。同じ方向を見て一緒に前に進む、同志のような夫婦なのだろう。


中津干潟が目前に広がる小祝漁港がかき養殖の拠点。ここから船で養殖場に向かう。干潟ではノリやアサリなどの養殖も行われ、沖合の底引き網漁では中津特産“つの字鱧”の水揚げも盛んだ。

中津干潟が目前に広がる小祝漁港がかき養殖の拠点。ここから船で養殖場に向かう。干潟ではノリやアサリなどの養殖も行われ、沖合の底引き網漁では中津特産“つの字鱧”の水揚げも盛んだ。


地域おこし協力隊に挑戦することに関しても意見は一致した。この制度を知ったのは、ちょうど中津への移住を検討しているころ、教えてくれたのは常連客だった。「調べてみると働く場だけでなく住まいなどのサポートも整っている。応募してみようとなったものの、締め切りがなんと2日後だったんです」と亮さん。


ここで馬力をみせたのが玲香さんだ。店の営業に追われる中、大急ぎで必要書類を集めて速達で郵送。間に合ったのだろうかとハラハラ待つと、無事に受理されたという知らせが届いた。その後の試験と面接もすんなりクリア。「協力隊になれたのは妻のおかげ。自分一人だったら諦めていたかもしれません」と亮さんは苦笑しながら振り返る。こうして夫妻の“第3の人生”がスタートを切った。



ベテラン漁師のもと干潟かきの種苗から出荷まで

干潟の干満差を生かした「ひがた美人」は、こぶりでもプリッとふくよかでうまみが凝縮。カゴの中で転がりながら育つため、殻が深いのも特徴だ。かき養殖を担う部隊は赤松さんのほかに2チームあり、すべて「大分県漁業協同組合 中津支店」から飲食店などに販売される。

干潟の干満差を生かした「ひがた美人」は、こぶりでもプリッとふくよかでうまみが凝縮。カゴの中で転がりながら育つため、殻が深いのも特徴だ。かき養殖を担う部隊は赤松さんのほかに2チームあり、すべて「大分県漁業協同組合 中津支店」から飲食店などに販売される。


「中津市の募集には、ほかの仕事もありましたが、かき養殖を選んだのは第一次産業のことを知りたいという好奇心から。知識として学ぶのと現場で働くのとでは理解の深さが違うと思いました。募集人数もちょうど2人。夫婦で同じ活動をできれば心強いと感じました」と玲香さんは話す。


二人の師匠となったのは漁師歴57年の大ベテラン、赤松正敏さんだ。そもそも中津でかきの生産が始まったのは2014年のこと。干潟での養殖は日本初の試みだ。育て方は「養殖バッグ」と呼ばれるカゴの中で、一粒ずつバラバラの状態で育成するシングルシード方式が採用されている。赤松さんは、スタート時からのメンバーで養殖事業の大黒柱といえる存在。その指導のもと、稚貝から育てて出荷するまでが二人の任務になった。


「養殖場は干潟の4カ所にあり、ここで行うのは主に養殖バッグの交換作業。かきの大きさに合った網目のカゴに替えたり、1つのカゴに入れるかきの数を調整したり。フジツボや海藻などが付着すると成長を妨げてしまうので、半月に1回、きれいなカゴに交換するのも欠かせません。こまめに世話をすることがふっくらとしてうまみの濃いかきを育てる秘訣だと赤松さんに教えられました」と亮さん。港に戻ると引き上げたカゴの掃除や、収穫したかきの洗浄・選別が待っている。時期や天候によって作業日数は変わるが、週4〜5日ほど稼働しているそうだ。


くいが立つところが養殖場。くいにはロープが渡され、ここにカゴをかけてかきを育てる。この日はカゴの交換日。亮さんが海に入ってカゴを引き上げ、船上の赤松さんと玲香さんが連携してかきを移し替えていく。「二人が来てくれて本当に助かっています」と赤松さん。

くいが立つところが養殖場。くいにはロープが渡され、ここにカゴをかけてかきを育てる。この日はカゴの交換日。亮さんが海に入ってカゴを引き上げ、船上の赤松さんと玲香さんが連携してかきを移し替えていく。「二人が来てくれて本当に助かっています」と赤松さん。


収穫したかきは港にある作業場に運び、洗浄した後、機械に載せて重さで選別する。手際よく作業を進める亮さんと玲香さん。すでに重要な戦力になっている。

収穫したかきは港にある作業場に運び、洗浄した後、機械に載せて重さで選別する。手際よく作業を進める亮さんと玲香さん。すでに重要な戦力になっている。



協力隊だからこそ出会える人と経験がある

自宅近くの三百間浜が定番の散歩コース。亮さんは1975年、新潟県生まれ。音楽制作の仕事から、4年半修業を積んでそば職人に転身した。玲香さんは1979年生まれで福岡県出身。武蔵野音楽大学卒のフルート奏者であり、楽器店に勤務しながら亮さんを支えた時期も。

自宅近くの三百間浜が定番の散歩コース。亮さんは1975年、新潟県生まれ。音楽制作の仕事から、4年半修業を積んでそば職人に転身した。玲香さんは1979年生まれで福岡県出身。武蔵野音楽大学卒のフルート奏者であり、楽器店に勤務しながら亮さんを支えた時期も。


こうした作業の合間には、同じ中津市で活動する協力隊のメンバーとの意見交換会も開かれているという。


「拠点は違っても同期の仲間。悩みや不安を共有できるから励みになります。協力隊の経験者が参加する日もあって、ちょっとしたことを気軽に相談できるのもありがたいですね」と玲香さん。そのつながりから、今年5月には耶馬溪の峠道を自転車で走る「ツールドやばけい」に支援部隊として参加。休憩所になるエイドステーションで、「ひがた美人」のつくだ煮を入れた亮さん特製のそばいなりを振る舞ったそうだ。


充実した毎日を送る夫妻だが、気になるのはお金のこと。家計はどのようになっているのだろう。


「僕らの場合、報酬は月額で1人19万2800円。加えて、世帯あたりガソリン代などの通勤手当4500円と、市役所への登庁時に利用する駐車場の賃料4400円も支給されます。中津市では家賃の全額を負担してくれるので、生活にかかる出費は水道光熱費と食費ぐらい。東京にいた時より無駄遣いもしなくなりました。ほかに年2回、いわゆる賞与にあたる期末・勤勉手当が報酬の1.4倍ほど出たので、そっくり貯蓄にまわしています」(亮さん)


報酬額や手当の内容は自治体や職種によって異なるが、移住先での安定収入と住む場所を得られるのは協力隊のメリットといえるだろう。ただし、魅力はそればかりではないという。


「協力隊になったことで、地域の方との交流が広がりました。中津の方はシャイなところがあるのですが、素性がわかると気さくに話しかけてくれる。協力隊の肩書が安心感につながるのでしょう」と語るのは亮さん。玲香さんもうなずきながらこう話す。「自分の周りにはなかった世界を体験できるのは協力隊ならでは。経験に勝るものはないと感じています。地域のことを真剣に考えるようにもなりました。単に移住しただけならここまで地域愛は芽生えなかったかもしれません」


小川さん夫妻の任期は3年。今冬からはいよいよ次のステップへの準備が始まる。目指すのは祖母宅でのそば店の開業だ。「養殖業からは離れてしまいますが、開業したら店で『ひがた美人』を広めていきます」と力強く語る亮さん。人生は一度きり。二人のチャレンジはまだ続く。


地域おこし協力隊入門講座

地域おこし協力隊入門講座

概要:年々、注目が集まっている地域おこし協力隊制度。興味はあるものの、制度がよくわからないという疑問の声も多い。そこで、地域とつながるプラットフォーム「スマウト」では、地域おこし協力隊への応募に関心のある方、地域選びに失敗したくない方を対象に、総務省主催のオンライン講座を毎月最終火曜日に開講中。制度についての詳しい解説をはじめ、特定のテーマを深掘りするコンテンツを配信。

地域おこし縁むすびキャラバン

地域おこし縁結びキャラバン

概要:地域おこし協力隊に興味のある人と協力隊員を募集する自治体とのマッチングイベント「地域おこし縁むすびキャラバン」が開催される。会場内には、自治体が出展するブースのほか、移住に関する相談、地域おこし協力隊制度を説明する各窓口が設置され、応募前の不安や疑問を解決できる絶好の機会となっている。地域との“ご縁”を生み出す本イベントに、ぜひご参加を!

・東京開催

2025/10/12(日) 東京交通会館8F セミナールームBCD

2025/11/29(土) 東京交通会館12F カトレアサロンA

・大阪開催

2025/11/02(日) OMMビル2F F/F2ホール

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