焼失した東大寺は清盛の死後に再建の動きが具体化し、重源は81年に東大寺勧進職に任命された。技術者、職人を組織し、源頼朝の支援なども得ながら勧進活動を行い、95年に大仏殿が再建されるにいたった。

 新居住職などによれば、重源と成良に接点があったと考えられる史料がいくつかあり、成良が重源の活動を支えたとみている。

 重源の事績を集めた「南無 阿弥陀あみだ 仏作善集」などには、阿波にあった阿弥陀堂を東大寺に浄土堂(現・俊乗堂)として移築し、丈六仏9体が運ばれ、その願主が成良であることが記されている。江戸時代初期の「東大寺寺中寺外惣絵図」にも、浄土堂の近くに、成良の石塔が頼朝の石塔とともに描かれている。新居住職や本出良一・同県人会相談役(77)は「再建の功労者として成良の供養の石塔を建てたのでは。重源上人の成良への深い思いがしのばれる」と話す。

「阿波民部大夫忌 重源と成良~奈良・徳島 祈りの架け橋~」と名付けられた法要は10月8日午前10時頃から。重源上人坐像が安置されている俊乗堂で、東大寺からは橋村公英別当ら、神山町からは新居住職らが参列して祈りをささげる。平家琵琶の演奏も行われる。

 合同法要は今後は毎年営まれる予定。実現の背景に、同県人会が東大寺で阿波おどりや人形浄瑠璃の公演を行うなど、両県のつながりのために尽力してきたこともあり、本出相談役は「これまでの活動の集大成とも言える法要」と喜ぶ。

 新居住職は「地方の小さな寺の願いを聞き入れてくれた東大寺の懐の深さに感謝。成良について知ってもらえる機会になれば」といい、森本公穣・東大寺大仏殿院主は「重源上人と田口氏を供養するとともに、奈良と徳島の交流がさらに進んでいけば」と話している。

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