ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2025.09.11 14:12

住宅数は全国の2.2%にすぎないが、住宅価格の総合はその7倍にもなる全国15%を占めるところ。総合不動産税の賦課基準である公示価格が12億ウォン(約1億2700万円)を超えるアパートの70%が集まっているところ。それがソウル江南(カンナム)だ。正確にいうと江南・瑞草(ソチョ)・松坡(ソンパ)区だ。江南がどんなところかはPSYの曲「江南スタイル」で外国人にも知られているのではないだろうか。実際、ウィキペディア英語版は江南スタイルを「新興富裕層(new rich)のライフスタイル」と説明している。

かつてJTBCが放映したシチュエーションコメディ『清潭洞(チョンダムドン)に住んでいます』(2011~12年)のように江南の地名は誇示の象徴となった。さらに「盤浦アクロリバーパーク」のように江南の地名が入った高級ブランドアパートは「地位財(positioning goods、得ることで自身を他人と区別するもの)」となった。

50~60年前には今の江南は存在しなかった。「永東(ヨンドン)」という地名からも分かるように、ただ「永登浦(ヨンドゥンポ)の東側」にすぎなかった。1975年に江南区が城東区(ソンドング)と永登浦区から分離し、88年に瑞草区が江南区から、松坡区が江東区(カンドング)から分離した。

60年代の江南は使い道のない地域だった。果樹園や畑ばかりで、68年まで江南は一般家庭はもちろん公衆電話も一つもない地域だった(『江南の誕生』、ハン・ジョンス著)。さらに低地帯のため洪水が発生することも多かった。

江南を開発し始めたのは住宅不足のためだった。60年のソウルは人があふれる状況だった。戦争が終わった53年に100万人ほどだったソウルの人口は60年に250万人に急増した。急増する人口を収容するためにソウル市は初めて既存の都心を高密化したり東大門(トンデムン)・水踰(スユ)など江北(カンブク)を開発したりしたが、それでも全く足りなかった。

◆最初の開発対象は今の江南でなく禾谷洞

それで視線を向けたのは江南だ。これには軍事的な理由もあった。韓国戦争(朝鮮戦争)当時、江北に住居地が密集していたため軍事作戦がまともにできなかったという判断だ(『江南』、キム・シドク著)。また江南は避難しやすいところでもあった。

ソウル市は66年に立てた「ソウル都市基本計画」に基づき漢江(ハンガン)北側40%、漢江南側60%の人口分散政策を推進した。60年代後半には北朝鮮軍特殊部隊が青瓦台(チョンワデ、韓国大統領府)を襲撃し、北朝鮮が米国の偵察艦プエブロ号を拿捕するなど南北関係が極度の緊張状態を迎え、江南を開発する必要性が高まった。

当初、ソウル市が開発を始めた漢江の南側は今の江南ではなく江西区(カンソグ)の禾谷洞(ファゴクトン)だった。ここに宅地を造成して単独住宅を供給した。しかし開発を進めるとすぐに地価が上昇した(『消費の韓国史』、キム・ジェウォン著)。あまりにも上昇し、宅地を開発しても購入できる人がいるか疑問を感じるほどだった。結局、ソウル市は禾谷洞の開発を中断し、代替地を探した。それが今の江南だ。そこは使い道のない土地があまりにも多く、価格は上がらないという判断だった。

江南開発のために最初に必要なことは洪水を防ぐことだった。漢江の水位調節のために昭陽江(ソヤンガン)ダムを建設(73年)し、堤防と河川沿いの道路(現オリンピック大路)を造成した。続いて漢江沿いを埋め立てて宅地にした。

人口流入のために政府は総動員令を出した。72年に臨時措置法を制定し、78年末まで不動産投機抑制税(譲渡税の前身)・営業税・登録税・取得税・財産税・都市計画税などを免除した。

75年には漢江北側の宅地開発を禁止した。江北の多くの地域がグリーンベルトに含まれ、開発が抑制された。最終的には大法院(最高裁)など司法府や検察庁だけが移ったが、ソウル市庁・韓国銀行(韓銀)など公共機関や金融機関の本店の江南移転も推進した。

最初に開発した江南の宅地はアパート用ではなかった。しかし方向が変わった。「一戸建て住宅ではソウル市内全域に住宅を建てても人口を収容できなかった。アパート以外に解決策はなかった」(キム・ビョンリン元ソウル市都市計画局長、ソウル市時事編纂委員会資料)。

朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領はアパートを近代化の象徴として強調した。62年の麻浦(マポ)アパート竣工の祝辞で麻浦アパートを「革命韓国の象徴」とし「現代的施設を完全に備えた麻浦アパートの竣工は生活革命をもたらす契機になる」と述べた。

76年、政府はアパートだけが建設可能な「アパート地区」制度まで導入した。11地区を指定したが、6地区が江南だった。事実上、江南アパート開発のためのものだった。

ソウル中産層も江南のアパートを好んだ。「避難しやすい地域にある、暮らしやすい住宅」だからだ。73年7月に盤浦1団地を分譲した際、当時では珍しく乗用車100台以上が集まった(『漢江開発会社』、イ・トクス著)。当時の頒布1団地は行政区域が「永登浦区銅雀洞(トンジャクドン)」であり、名称も「南ソウルアパート」だった。韓国土地住宅公社が建設した4000世帯近い最初のアパート大団地だった。30~40坪台で漢江の眺望よりも南向きが優先され、5階建てが南側に向いて一列に配置された。

◆私教育と高級雇用のメッカとして定着

江南の開発に加速させたのは江北の名門高校の移転だった。76年に京畿(キョンギ)高をはじめ、四大門内にあったソウル高、徽文(フィムン)高、淑明(スクミョン)女子高などが江南に移った。ここに新興名門高が加わって江南「8学区」を形成した。子女を名門高に入れて良い大学に進学させ、良い職場を就職させようとする親が集まり、江南アパートの価格は天井知らずに上がった。

90年代に入って私教育の合法化、大学修学能力試験の導入、特別目的高校の増加などで江南は大峙洞(テチドン)を中心に「私教育1番地」に浮上した。高級化の流れの中、商業地域にランドマーク格の超高層住商複合アパートが建てられた。貧困地域だった江南区道谷洞(ドゴクトン)に2002~2004年に建設された最高69階・2500世帯のタワーパレスは超高層住商複合の元祖となった。瑞草洞にサムスンタウンが誕生し、江南はテヘラン路一帯などを中心に高級職場のメッカとして定着した。90年代後半に始まった再建築ブームは江南アパートの価格をさらに高めた。

江南のアパートは中産層の羨望の対象だ。江南は大韓民国の成長と発展の代表的な自画像であり、集中と効率の代名詞でもある。しかし「江南の2つの顔」とでも言えるだろうか。集中的な開発は豊かさまでも江南に集中させた。二極化の末、「彼らだけの世界」という声も聞こえる。正義論で有名なマイケル・サンデル米ハーバード大教授が説明したように、野球場の高級観客席に例えた「スカイボックス化」の懸念もある。最近『正義と都市』を出したソウル大のペク・ジン建築学科教授のソウル批判は江南のアパートにも当てはまるだろう。わが国でソウルと首都圏だけが一人勝ちすれば成長が限界にぶつかるしかないというのがペク教授の指摘だ。同じくソウルでも江南だけが独走すれば困難にぶつかるはずだ。均衡発展が何よりも必要な時点だ。

◆住むところも聴く歌も「アパート、アパート」

大韓民国は「アパート共和国」という。否認しがたい。2024年の人口住宅総調査によると、アパートは1297万戸で全体住宅(1987万戸)の65%を占める。3戸のうち2戸はアパートということだ。1970年に3万3000戸だったのが50年余りで約400倍になった。歌手ユン・スイルの曲「アパート」が出る2年前の85年、アパートは82万戸だった。アパートの比率はさらに増える見通しだ。昨年の住宅許認可の88%もアパートだった。昨年の住宅取引もアパートが大半(77%)だった。

解放後、我々の技術で建てた最初のアパートは59年竣工の鍾岩(チョンアム)アパートであり、最初のアパート団地は62年竣工の麻浦アパートだ。アパートは初期に便利さと現代的な生活の象徴として人気を呼んだ。泥棒が多かった時代、相対的に一戸建て住宅より心配が少ない住居地でもあった。アパート取引が爆発的に増えて価格が上がり、換金性が高まるというメリットもあった。

アパートはもう韓国文化の象徴の一つとして定着した。「アパート」という飲酒ゲームまで登場し、これをテーマにK-POPを作った歌手ロゼは最近、米国MTVビデオミュージックアワードで「今年の歌(Song of the year)」賞に選ばれた。

しかしアパートがみんなに歓迎されたわけではない。「アパート共和国」という言葉にみられるように陰の部分もあった。83年に韓国小説文学賞を授賞したシン・ソクサンの長編小説の題名として初めて使われた。シン・ソクサンは小説でアパートをセメントの壁が仕切る隣人間の断絶と黄金万能主義を生み、運営管理不正の温床になった都市の「怪物」と表現した。

アン・ジャンウォン/不動産記者

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