大阪・関西万博が3回目の万博経験となるアンさん【写真:Hint-Pot編集部】
2025年大阪・関西万博の会期も、残すところあと1か月を切りました。連日多くの来場者でにぎわう万博会場では、各パビリオンで働く外国人スタッフたちが訪問者を迎えています。「再生(Regeneration)」をテーマに、専用タブレットを用いたAR技術を使って、カナダの壮大な自然と先進的な都市を没入体験できるカナダパビリオン。そこでスタッフのコーディネーターとして働くアンさんは、1980年代に日本に留学したときと比べて、日本社会の大きな変化を目の当たりにしているといいます。いったい、どのように変わったのでしょうか。
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1980年代に日本に留学していたアンさん つくば万博もスタッフとして経験
アンさんはカナダ・バンクーバー出身。現在は、カナダパビリオンでスタッフのコーディネーターとして勤務しています。
1982年、高校生のときに交換留学で初めて来日し、成田の近くで1年間過ごしました。1985年のつくば万博でもカナダパビリオンで働き、1988年のブリスベン万博にもスタッフとして参加。今回は4回目の来日で、1980年代から日本を知る「日本通」のひとりです。
そんなアンさんが最も驚いているのは、日本の街並みに起こった劇的な変化でした。
「英語の標識がどこでもあるようになった。1980年代は日本語表記しかなかったから、電車に乗るときも生活するのにいろいろ大変だった。とくにトイレね。トイレに行きたいけれど、どっちが女性かわからなくて、中から出てくる人を確認して入っていた(笑)。学校に通うのに使う駅を覚えなくちゃいけないから、駅の漢字を覚えて……。そうやって日本語を習得できた」
1980年代の日本は、ほぼ日本語表記のみ。日本語が理解できない訪日外国人にとって、日常生活の基本的な行動すら困難を伴うものでした。
訪日観光客の増加や2020年東京五輪により、多言語対応の強化が一気に進化。たとえば、以前は「Kokkai」とローマ字で表記されていた国会周辺の道路案内標識は、英語表記の「The National Diet」へと変更されました。
また、公共交通機関では駅ナンバリングを導入し、アルファベットと数字を組み合わせた路線記号を表示するようになりました。高速道路もナンバリング標識を導入し、約40年前に比べると、外国人旅行者を含むすべての人にわかりやすい道案内になってきています。
1980年代の日本を知るアンさんの視点は、私たち日本人が意識しにくい日常生活や社会の変化が、いかに大きなものだったかを気づかせてくれるかもしれませんね。
(Hint-Pot編集部)
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