美女を使って敵対勢力を骨抜きにする「美人の計」が普通に行われてきた中国。孔子も、その被害者の一人だった(写真:hoyano/イメージマート)

小都市並みの規模を持つ巨大な密室、後宮。イスラム文化圏のハレムなどと違い、中国的な後宮は、中国の歴代王朝にしか存在しない。そして王朝の永続のために、その制度は改良され続けた。後宮を舞台としたアニメ『薬屋のひとりごと』が人気を博すなど、さまざまな作品でも描かれてきた。3000年以上も存続した後宮は、中華帝国の本質を映し出す国家システムだ。中国史に詳しい明治大学の加藤徹教授は、新著『後宮 殷から唐・五代十国まで』で、その後宮を軸にした中国史に迫った。

(*)本稿は『後宮 殷から唐・五代十国まで』(加藤徹著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

伝統的な策略「美人の計」とは

 中国の伝統的な策略の一つに「美人の計」がある。

 君主が美女に溺れれば、政治が疎かになり、国は弱体化する。夏の桀王は末喜(ばっき)に、殷の紂王は妲己(だっき)に、西周の幽王は褒姒(ほうじ)の色香に迷い、国を滅ぼした。末喜も妲己も褒姒も、小国から大国の王に献上され、結果として大国を内部から自壊させたのである。

 春秋時代になると、美女を使って敵対勢力を骨抜きにする美人の計が、普通に行われるようになった。

 孔子も、美人の計の被害者だ。

 魯は弱国だったが、孔子が魯の政治を行うようになると、民度は高まり治安も良くなり、政治も清廉になった。魯の隣国である斉は大国だったが、魯の急成長を脅威に感じる。そこで美人の計を行った。

 斉は、魯に女性歌舞団を派遣する。魯の権力者であった季桓子(きかんし)は夢中になり、三日も朝廷を休んだ。孔子は失望し、弟子たちとともに魯の国を去った、と『論語』や『史記』は伝える。

 同じころ、越王勾践の臣下である范蠡(はんれい)も、強大な呉王夫差を弱体化させるため、彼の後宮に絶世の美女・西施(せいし)を送り込んだ。

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