「事実は事実として後世に」沖縄“終戦後”の戦争…住民20人が犠牲に【報道ステーション】(2025年9月12日)

せえせを迎えた沖縄。 [音楽] 各地で太鼓の音が響き渡り、亡くなった人への祈りを込めたエイサー祭りが行われました。今年は沖縄線から 80年の節目。 終戦後も続いた戦いの中で家族や友人を失った人たちの心は今も言えることがありません。 自分のこの相手さを首島の人殺す殺されてんだ。一本人の今でも肉がある。 [拍手] 県民の4人に1人が命を落とした沖縄線。 式を取った牛島司令官が自決し、戦闘が 集結したのは6月23日とされています。 しかしこの日終わったのはあくまで組織的 な戦闘。 エリラ的な戦いは各地で続いていました。 沖縄本島から西へ100kmの場所に位置 する島もその1つ。 当時およそ1万4000人が生活してい ました。 そこにアメリカ軍が上陸してきたのは6月 26日のことです。 あの、 当時6歳だった上津ゆみ子さん住民が その時のことを鮮明に覚えています。 [音楽] でもそれをね、やっぱりずっとこう条件を持ってね。で、それでうちの小屋の前に来て休憩したんですね。 [音楽] それでその時にあの弟が出ていって、あせ 兵さんだ、ヘ太さんだっていうもんだから 私も一緒にで見て初めてあのベイク軍って いう外国人っていうのを見たこと初めて見 たんですね。うん。 上陸したアメリカ軍は住民には有効的でし た。 作業中の人たちと会話をしている様子を 納めた写真も残されています。 しかしこうした状況に神経を尖らせたのが 島に残った日本軍でした。 島の軍事情報を提供したり、アメリカ軍の スパイとなったりしているのではないかと 疑ったからです。 これは日本軍が住民に出した通達。 敵が宣伝ラ父の場合、乱にこれを習得するものは敵側スパイと見なし殺す。この時島にいた日本軍はおよそ [音楽] 30人。 北部にある山の中に潜めていました。 山の方に立てこもって米軍人がこうやら れるの。それを恐れてむしろ住民を山から 下ろさずにね、山から降りるとあの 米軍とね、あの接触するからスパ容儀で やるよというこ脅しをかけて あのできるだけ住民をあの下ろさないあの 自宅に返さないようにねあのしてたと思い ますね。 何が彼らをそうさせたのか。 大きな要因が沖縄線を指揮した牛島司令官 が自する直前に出した最終命令です。 [音楽] 最後まで関東し有求の大義に行くべし。 つまり生き残った兵士に投稿することを 許さず、最後の1人になるまでアメリカと 戦い続けろと命じていたのです。 [音楽] そして悲劇が始まりました。 カ友は順のもうところ教を耐え忍び教を忍び持って鉄板のために体を開かんとす。 [音楽] 玉音放送が流れた 8月15 日。いよいよこれで戦争は終わったかに思われました。 [音楽] しかし式系統が崩壊していた沖縄の日本軍 戦いが終わることはありませんでした。 その中でく島の住民たちはある光景を目に します。 [音楽] こう黒い煙と炎が舞がってるのずっと遠く の方に見えたんですね。これなんだろう かって今時っていう風に思ったのがあり ますけども後で知ったら殺害されたてで声 もともあの燃やされたあの 煙あの炎だったんだなってことを 知りました。 [音楽] ここが当時小屋の置かれていた場所。 手をかけたのは日本軍でした。 住民をスパイと見なす度び、こうした場所 に連れ出して家族と共に殺害したのです。 その時の様子が描かれたが、 [音楽] 殺された中には赤ちゃんや幼い子供も含ま れていました。 組織的な戦闘が集結した6月23日以降 犠牲となった住民は合わせて20人に登り ます。 島の日本軍がアメリカ軍に軍島を渡し投稿 したのは9月7日になってからでした。 [音楽] その後日本人が日本人を謝めたことについ ては不合な事実として多くの人が長い間 硬く口を閉ざします。 住民の中には日本軍に密国していた人もい て、この話に触れること自体がタブーとさ れました。 いでも海の人たちはこの話でもうやめてくださ させないよ。 しかし これがですね、 島には先月 犠牲者を痛む慰例費が新たに設置されました。 こういうずっと明して来たらのあの 中心となって動いたのは 戦後生まれの人たちです。 この辺の あの未告した人とかそれから逆に被害者となった方そういうのがあって色々複雑な気持ちがあるということでですね確かに反対とか賛成色々はそん中でありました。 事実は事実として構成に残していきたいという思い、ま、政策に取りかかります。 事実は事実として改めて問われる終戦 80年です。 本当に戦争ってこういかに無くて残酷なものなんだというそういう事実を改めて突きつけられた気がしました。 うん。本当ですね。あの 80 年という時を超えてその人々の感情を超えて、 え、霊費に刻まれた名前の重みというものを私たちはこの事実を知ることによって、え、私たちも心に刻んでいかなければいけないと思いましたね。 うん。 あの、命を落とした方々はもちろんその生きるためにその密国を強いられてその罪の意識を抱えて戦後生きた人たちもまた戦争の被害者と言っていいと思います。 え、そしてこの戦後80 年という時間の中で複雑に入り組んだ事実を継承して慰例費という形で記録に残した地元の方々に、え、心から経緯を表したいと思います。 の人出てくれ。 [音楽] [拍手]

先月、沖縄の久米島に戦争の犠牲者を悼む慰霊碑が立てられました。そこには沖縄戦が終了した80年前の6月23日、さらには「終戦の日」とされる8月15日の後に殺された人たちの名前も刻まれています。終わったはずの戦争でなぜ犠牲者が出たのか。そして慰霊碑の建立までになぜ80年の時を要したのか。戦争がもたらした究極の悲劇の実相に迫りました。

■最後の1人まで…“終戦後”の戦争

旧盆を迎えた沖縄。太鼓の音が響き渡り、亡くなった人への祈りを込めたエイサー祭りが各地で行われました。今年は沖縄戦から80年の節目。終戦後も続いた戦いの中で家族や友人を失った人たちの心は、今も癒えることはありません。

山城昌盛さん(88)
「自分の国の兵隊が久米島の人を殺した。殺されたんだよ、日本人に。今でも憎さがある」

県民の4人に1人が命を落とした沖縄戦。指揮を執った牛島満司令官が自決し、戦闘が終結したのは6月23日とされています。しかし、この日終わったのはあくまで“組織的な”戦闘。ゲリラ的な戦いは各地で続いていました。

沖縄本島から西へ100キロの場所に位置する久米島もその1つ。当時、約1万4000人が生活していました。そこにアメリカ軍が上陸してきたのは6月26日のことです。

当時6歳だった、上江洲由美子さん(86)。その時のことを鮮明に覚えています。

上江洲由美子さん
「ずっと銃剣を持って、うちの小屋の前に来て休憩した。その時に弟が出ていって『兵隊さんだ』と言うから、私も一緒に見て。初めて米軍、外国人というのを見た」

上陸したアメリカ軍は住民には友好的でした。農作業中の人たちと会話をしている様子を収めた写真も残されています。しかし、こうした状況に神経をとがらせたのが島に残った日本軍でした。島の軍事情報を提供したり、アメリカ軍のスパイとなったりしているのではないかと疑ったからです。

日本軍が住民に出した通達には。

日本軍の通達文書
「敵が宣傳『ビラ』撒布の場合、妄に之を拾得する者は、敵側『スパイ』と見做し、銃殺す」

この時、島にいた日本軍は約30人。北部にある山の中に身を潜めていました。

上江洲由美子さん
「(日本軍は)山の方に立てこもって、米軍から攻撃されるのを恐れて、住民を山から降ろさずに。山から降りると米軍と接触するから『スパイ容疑でやるよ』という脅しをかけて、できるだけ住民を自宅に帰さないようにしていた」

何が彼らをそうさせたのか。大きな要因が、沖縄戦を指揮した牛島司令官が自決する直前に出した最終命令です。

牛島満司令官
「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」

つまり、生き残った兵士に投降することを許さず、最後の1人になるまでアメリカと戦い続けろと命じていたのです。そして、悲劇が始まりました。

■“終戦後”日本軍が住民殺害

玉音放送が流れた、8月15日。いよいよこれで戦争は終わったかに思われました。しかし、指揮系統が崩壊していた沖縄の日本軍。戦いが終わることはありませんでした。その中で、久米島の住民たちは、ある光景を目にします。

上江洲由美子さん
「黒い煙と炎が燃え上がるのが、ずっと遠くの方に見えた。あれは何だろうか今どきと思ったのがありますけれども。後で知ったら、殺害された小屋もろとも燃やされた煙と炎だった」

手をかけたのは日本軍でした。住民をスパイとみなすたび連れ出して、家族とともに殺害していました。殺された中には、赤ちゃんや幼い子どもも含まれていました。組織的な戦闘が終結した6月23日以降、犠牲となった住民は合わせて20人に上ります。

島の日本軍が、アメリカ軍に軍刀を渡し、投降したのは9月7日になってからでした。その後、日本人が日本人を殺めたことについては、不都合な事実として多くの人が長い間、固く口を閉ざします。住民の中には、日本軍に密告をしていた人もいて、この話に触れること自体がタブーとされました。

山城昌盛さん
「今でも関係者の人たちにとっては、この話はもうやめてくれと。(話を)させないよ」

しかし、島には先月、犠牲者を悼む慰霊碑が新たに設置されました。中心となって動いたのは、戦後生まれの人たちです。

神里稔さん(74)
「密告した人とか、逆に被害者となった方がいて、色々複雑な気持ちがあって(慰霊碑に)反対や賛成、色々その中でありました。事実は事実として後世に残したいという思いで製作に取り掛かりました」

事実は事実として。改めて問われる終戦80年です。
[テレ朝NEWS] https://news.tv-asahi.co.jp

8 Comments

  1. このようなケースは悲しいことに沖縄だけ特別に起きたわけではなく世界の至るところで起きています。
    人間は命が懸かった状況では疑心暗鬼になり、身内さえ疑ってしまいまう。
    戦争の紛れもない事実。

  2. 当時は日本が負けるとどうなるかなんてわからないからな。ただただ、悲しい

  3. 沖縄、返還されずにアメリカに占領されたままにした方が、安全保障上も日本にとって良かったんじゃね?