球史に残る大投手の生涯ベストシーズンの成績を比較して、日本プロ野球史上No.1投手を探る旅。江川卓、菅野智之らに続く第21回は、沢村栄治とともにプロ野球の黎明期を支え、シーズン42勝というプロ野球タイ記録を持つ大投手、ヴィクトル・スタルヒンだ。
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ロシア貴族が野球選手になるまで
1916年に帝政時代のロシアの貴族の一人息子として生まれたスタルヒンは、1917年に勃発したロシア革命により家を追われ、2歳からの8年間、シベリアや満州へ逃避行しながら、9歳の時に北海道旭川にたどり着いた。
日本の成人男子の平均身長が162cm程度だった時代に、旧制・旭川中学への入学時すでに180cmを超えていたスタルヒンは、長身の剛速球投手としてたちまちエースになった。1933年、34年と連続して夏の甲子園の北海道予選で決勝まで勝ち進んだが、味方のエラーもあり、あと一歩のところで甲子園出場を逃していた。
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来年こそ甲子園に。地元の期待を一身に背負っていたスタルヒンの運命を変えたのが、1934年11月に開催された日米野球だった。ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスといったMLBの歴史に名を残す大打者が揃った全米チームを迎え撃つ全日本チームのメンバーに、主催者である読売新聞は、190cmを超える剛腕で、白皙(はくせき)のロシア貴公子という話題性もあるスタルヒンを強引にスカウトした。
父が殺人事件で収監、国外追放の危機
ロシア革命ですべてを失い、さらに流れ着いた旭川で父親が殺人を犯した罪で収監されるという不幸が重なって生活に困窮し、いつ国外追放されてもおかしくない状況に陥っていたスタルヒン一家は、職業野球の世界に身を投じる以外に選択肢がなかったとされる。
1934年11月25日の深夜、スタルヒンは夜逃げ同然に旭川を発ち、全日本チームに合流した。そして、そのわずか4日後の11月29日、埼玉県営大宮公園野球場で行われた日米野球第17戦の8回のマウンドに3番手として立った。
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