フランス中央部のドルドーニュ川ほとりに立つカステルノー城(「新しい城」という意味)は、カトリック教会とカタリ派との戦いで破壊されたが、1200年代に現在の姿に建て直された。(De Lagasnerie/GTRES)

フランス中央部のドルドーニュ川ほとりに立つカステルノー城(「新しい城」という意味)は、カトリック教会とカタリ派との戦いで破壊されたが、1200年代に現在の姿に建て直された。(De Lagasnerie/GTRES)

 自分の身を守るために、塀や堀の後ろ、または丘の上に隠れたくなる人間の本能は昔から変わらない。中世の時代、武器や戦争の進化に伴い、こうした本能はヨーロッパの人々を要塞の建造へと駆り立てた。やがてヨーロッパは要塞建築の黄金時代を迎え、歴史上かつてなかったほど完成度が高く複雑な要塞が数多く建てられた。(参考記事:「“アーサー王生誕の地”に要塞跡、英「暗黒時代」に光」)

 初期の頃の要塞は、後の時代に登場する立派な城とは大きく異なっていた。9~10世紀の要塞は木造で、主に人工的に作られた丘の上に建てられた。

 北フランスのノルマンディー公ウィリアム(ウィリアム1世)によるイングランド征服後に、このような丘は「モット」と呼ばれるようになった。典型的なモットは防御用の堀で囲まれ、そこから掘り出された土は、これも防御用の盛り土を作るために再利用された。(参考記事:「たった1日でイングランドを永久に変えたヘースティングズの戦い」)

 盛り土の上には、木製の柵が張り巡らされた。堀を渡るために、木製の跳ね橋も作られた。

イングランド王ウィリアム1世が、イングランド北東部のピカリングに建造を命じた木造の要塞は、今は残っていない。このイラストは、13世紀に建てられた石造要塞の名残を参考にして、元の木造要塞を描いた想像図。(Illustration by Jaime García Carpintero; Based on research by Jesús Molero, David Gallego, and Cristina Peña)

イングランド王ウィリアム1世が、イングランド北東部のピカリングに建造を命じた木造の要塞は、今は残っていない。このイラストは、13世紀に建てられた石造要塞の名残を参考にして、元の木造要塞を描いた想像図。(Illustration by Jaime García Carpintero; Based on research by Jesús Molero, David Gallego, and Cristina Peña)

 スペインがあるイベリア半島の大部分は、8世紀初頭からイスラム教国によって支配されていたが、10~11世紀にかけてキリスト教国によるレコンキスタ(再征服)運動が拡大すると、カスティーリャ平原の各地にモットが作られた。(参考記事:「イスラム教とキリスト教建築が奇跡の融合、世界遺産メスキータ」)

 そのうちの一つであるスペイン、ブルゴスのモタ・デ・ムニョ城は、10~11世紀に活気ある街の中心地となった。このように、城の周囲に街ができるのはよくあることで、住人たちは、堀や盛り土、柵に守られて安心して暮らすことができた。(参考記事:「騎士は中世のスーパースターだった 歴史に残る騎士4選」)

 モットは、11~12世紀になると、フランスや、アングロサクソン時代およびノルマン朝のイングランドにも広まった。(参考記事:「世界遺産ロンドン塔はどんな場所? 王宮から牢獄まで千年の歴史」)

ギャラリー:数々の仕掛けで敵を撃退、中世ヨーロッパの要塞の進化史 写真と画像16点(写真クリックでギャラリーページへ)

フランス南西部の街カルカソンヌに近い農村部に立つアルク城。高さ25メートルで、キープは四角い形をしている。(Arnaud Spani/GTRES)

フランス南西部の街カルカソンヌに近い農村部に立つアルク城。高さ25メートルで、キープは四角い形をしている。(Arnaud Spani/GTRES)

1066年、征服王と呼ばれたノルマン朝のウィリアム1世がイングランドを制圧し、この写真のモットを築いた。その上に建てられた木造の要塞は、1190年に起こった激しいユダヤ人弾圧の際に焼失し、この写真に写る石造りのクリフォード塔が再建された。(Imagebroker/ACI)

1066年、征服王と呼ばれたノルマン朝のウィリアム1世がイングランドを制圧し、この写真のモットを築いた。その上に建てられた木造の要塞は、1190年に起こった激しいユダヤ人弾圧の際に焼失し、この写真に写る石造りのクリフォード塔が再建された。(Imagebroker/ACI)

 木造の要塞は、やがてより大きな石造りの塔(通常は方形)にとってかわられた。この塔は英語で「キープ」と呼ばれ、フランス語では「ドンジョン」、ドイツ語では「ベルクフリート」、イタリア語では「マスキオ」、そしてスペイン語では「トーレ・デル・オメナヘ」と呼ばれた。オメナヘとは、「忠誠の誓い」を意味し、塔が持っていた機能の一つを表している。

 カロリング帝国崩壊後の10世紀半ば以降、西ヨーロッパと中央ヨーロッパでは多くの封建領主が権力を握るようになった。領主は、自分たちの領土内において実質的な主権を持ち、トーレ・デル・オメナヘは家臣たちがその領主に忠誠を誓う場となっていた。(参考記事:「不潔で不合理な「暗黒時代」? 中世ヨーロッパの4つの誤解」)

 現在私たちが中世のものとしてイメージする石造りの城は、11~12世紀以降に現れた。そもそもは簡素な木造のキープが重厚な石の城へと進化した主なきっかけは、戦争の性質の変化だった。

 いくつかの会戦を除けば、中世の戦争は、ほとんどが特定の領土の要塞を掌握することに焦点を置いていた。包囲攻撃を仕掛けるための技術や手法が洗練されるにつれて、迎え撃つ城も工夫を凝らす必要に迫られた。城の周囲には同心円の防御壁が何重にも築かれ、その中心にある石造りの塔(キープ)が、最後の防御拠点として敵を待ち構えていた。

次ページ:敵の侵入を阻む数々の仕掛け

ここから先は、「ナショナル ジオグラフィック日本版」の
会員*のみ、ご利用いただけます。

*会員:年間購読、電子版月ぎめ、
 日経読者割引サービスをご利用中の方、ならびにWeb無料会員になります。

WACOCA: People, Life, Style.