1日ひと組限定、築150年の古民家民泊
大分県杵築市山香(やまが)町。田畑と山に抱かれたこの地域は、足を止めてしばらく過ごしたくなる場所として、旅慣れた人や移住者のあいだで静かな人気を集めています。
豊かな自然が広がる山香町。
このまちが人々を惹きつけてやまない理由は何でしょうか? 約6年前にこの地へ移住し、現在は民泊の宿〈yamakaoru〉と一棟貸しの宿〈matai〉を営む野口奈々絵さんを訪ねました。
JR日豊本線・中山香駅から車で約5分。yamakaoruは、古き良き住まいの風情を残す築約150年の古民家。玄関のガラス戸に記された屋号と、その奥で揺れる白い暖簾が、訪れる人を静かに歓迎してくれます。
最初に出合ったのは、庭先を歩く烏骨鶏の家族。この家の日常へ踏み込む合図のように、穏やかな時間が流れ始めます。
ここでは数羽の烏骨鶏とウズラたちが同居中。
続いて笑顔で出迎えてくれたのは、この民泊のオーナー、野口奈々絵さんです。
〈yamakaoru〉を営む野口奈々絵さん。鶏たちも自由に庭先を歩き回ってのびのびと暮らしています。
現在は、大工である夫の泰秀さんと、3歳と1歳の子どもの4人家族で、この自宅兼民泊で暮らしています。建物に入ると、正面にはテーブルと椅子を配した宿泊客専用のダイニングルーム、右手には縁側からやわらかな光が差し込むリビングルームがあります。
左側の小窓は土間のキッチンとつながっていて、窓の向こうから奈々絵さんが支度する音が聞こえてきます。
アットホームなリビングルーム。
昔から当たり前にあったかのように空間になじむ家具や建具たち。これらはリノベーションする以前から奈々絵さんが集めてきたものだそう。
「解体が決まっている家を見つけたら、直接交渉に行っていました。あるときはユンボが動く横で床板を剥がしたこともあります(笑)」と、なかなかタフな一面も。
リビングの奥には、墨を練り込んだ漆喰壁が空間に落ち着きをもたらす客室「SUMI」、2階にはグループでも泊まれる客室「HARI」があり、現在1日ひと組限定での予約が可能です。
母屋の“隅”に位置する部屋であることと、漆喰に“墨”が練り込まれていることをかけて「SUMI」と名づけられた部屋。
2階の「HARI」の部屋は、その名のとおり“梁”がこの部屋のシンボル。天井は低めですが、最大で7名が宿泊可能な広さです。
もちろん、ここにはテレビはありません。窓の外から鳥や虫たちの声のBGMが届く贅沢なひとときを過ごすことができそうです。
ゲストは子連れの家族や、古民家リノベーションに関心のある方が多いそう。奈々絵さんが日々インスタグラムで発信するこの家の風景や山香での暮らしに惹かれて、県内外から訪れる人もいます。
旅が導いた山香移住と古民家リノベ
もともと東京で暮らしていた奈々絵さんと泰秀さん。ふたりが山香町で暮らすようになったきっかけは、泰秀さんが2018年に始めたバイクの旅でした。
「6年間勤めた不動産会社を退職して、当初は海外にでも行こうと考えていました。けれど、ふと『そういえば日本のことをあまり知らないな……』と思ったんです。ちょうど実家に親父の〈スーパーカブ〉があって、昔からキャンプも好きでしたし、じゃあこれに乗って日本を見て回ろうと思って旅を始めました」(泰秀さん)
古材をレスキューし活用する〈リビルディングセンタージャパン〉を経て、いまは大工として働く夫の野口泰秀さん。
各地を転々とするなか、友人の勧めで立ち寄った山香町で地元の人々と意気投合。いったん旅を続けて沖縄へ向かったものの、帰路でふたたび山香へ。
地域のイベントを手伝いながら数週間を過ごすうち、この土地の穏やかさと人の温かさにすっかり魅了され、山香が大好きになったと言います。
やがてその体験は、奈々絵さんにも広がっていきます。
泰秀さんから「ここは人との距離感が心地いい」と聞かされ、奈々絵さんも旅行で山香を訪れました。そこで地元の人々の「ないものはつくる、あるものは直す」という暮らし方を目の当たりにし、そのたくましさと美しさに胸を打たれたと言います。
「地元の方たちと一緒にお昼を食べたとき、その家の庭にあった柿の葉をちぎって、その場で衣をつけて天ぷらにしていたんです。暮らしの知識をさらりと実行できる一連の流れが、私にはハッとするほど衝撃的で心に刺さったのを覚えています」
その後、奈々絵さんは2018年10月には地域おこし協力隊に応募、翌年1月から地域おこし協力隊として、杵築市の移住定住係に着任しました。
一方の泰秀さんは旅を終えると、長野県諏訪市の〈リビルディングセンタージャパン〉で1年間修業を積み、現在の大工の仕事へとつながっていきます。
リビングの棚には泰秀さんが古い家の敷居などを加工してつくった木製のランプシェードやケーキスタンドなどが並べられており、購入が可能です。
ひと足先に現地での生活をスタートさせた奈々絵さん、次はふたりで暮らせる家探しが始まりました。
「いつかはこの土地で宿をやってみたい」。そんな思いを胸に、奈々絵さんは毎週末、軽トラックで集落を巡りました。ふたりで定めた家探しの条件――静けさ、屋根の堅牢(けんろう)性、広さ――にかなう空き家を探し続け、ようやく出合ったのが、築約150年、空き家歴25年のこの古民家でした。
築約150年の古民家を改修。泰秀さんは大工の仕事を通じて、古い家の雨漏りのダメージを実感していたので、建物は古くとも屋根がしっかりしていることがふたりにとって大切な条件になりました。
さぁ、ここからはリノベーションの日々のはじまりです。
毎週末、市内のアパートから古民家へ通い、約1年間改修を続けました。暮らせる状態になったところで、住みながら直す段階へ。そこからさらに約2年半をかけて、衣食住の土台が整った家へと仕上げていきました。
最大の難所は浴室。「給水・排水・防水・左官・電気、全部が交差する場所でした」と奈々絵さん。ときには夜中に天井の漆喰が落ちるという失敗もありましたが、自分たちの家だからこそ実験ができる。失敗はすべて次の一手の糧になったと笑います。
既製のユニットバスをはめ込むという簡単な選択肢もありましたが、あえてそれはせずに一からリノベーションすることに。リノベーションの様子はこちらの記事でも紹介しています→大分移住手帖
奈々絵さんが一番気に入っている土間のキッチンは、畑から戻っても気兼ねなく使える利点がある一方、冬の底冷えや掃除の手間が難点。それでも「知らなかったから踏み出せたし、いまはこのキッチンが好き」と言い切れるのは、火のある時間や、季節のリズムがもたらす心地よさを知ったからにほかなりません。
こうして試行錯誤を重ねながら少しずつ改修を進めた家は、ゲストを受け入れられるまでに整い、1日ひと組限定の民泊、yamakaoruとして歩み始めました。
宿では“当たり前じゃない”を楽しんでほしい
奈々絵さんに山香で暮らす魅力を尋ねると、「ねむの木にピンクの花が咲いたら大豆の種まき」「春分にジャガイモを植えるといい」など、自然が教えてくれる暦と季節ごとの段取りが人々の暮らしの背骨にしっかりとあることだと言います。
「ここへ来た頃は、何をするにも知らないことばかりで、周りの人たちに追いつくのに精一杯でした。数年たったいまは、自分自身にもきちんとリズムとして浸透してきた気がします」
この手仕事の頃合いとリズム感は、自然豊かな場所で日々を重ねてこそ身につくもの。奈々絵さんにとって大きな財産となりました。
さらに、季節のリズムに合わせて手を動かすうちに、暮らしの道具そのものを自分の手でつくり出したいと思うようになった奈々絵さん。そのときに偶然出合った素材が、国東半島特産の七島藺(しちとうい)です。週に1度開かれる教室に通って技法を学び、円座やしめ飾りをつくれるまでになりました。
現在は国東半島の数軒の農家でしか栽培されていない七島藺。畳などに使われるほか、暮らしの道具などの工芸品に。こちらの記事でも詳しく紹介しています→国東だけで育つ「七島藺」の鍋敷き。七島藺工芸作家・岩切千佳さん
実は東京在住の頃、藁雑貨を編んでそれを「谷根千(谷中・根津・千駄木)」エリアのマルシェで販売していたという奈々絵さん。七島藺の扱いにもそれほどハードルを感じなかったのかもしれません。
数本を捻って1本に。これを丁寧に編んでいきます。
奈々絵さんがつくった鍋敷き、コースター、円座など。
暮らしにも、七島藺でつくられた道具がなじんでいます。
そしてこの夏、yamakaoruから少し離れた場所に、集落名から名をもらった一棟貸しの宿〈matai〉が新オープン。ここでは食事やお風呂の準備と片づけ、部屋の温度調整に至るまで、すべてがセルフサービスとなっています。
「又井」という集落の名前からその名をとった〈matai〉。
野口さん一家の暮らしの営みを感じるyamakaoruとはまた違う空気で、田舎の静けさを深く満喫することができます。
この家も泰秀さんと奈々絵さんでリノベーション。薪ストーブのある広めのリビング。
カーテンを開けると窓一面に田んぼの景色が広がります。
「山香で暮らしてみると、もちろん不便や大変さもあるんですけど、意外とそれが嫌じゃないくらい、ここでの暮らしが好きになりました」
キッチンも快適。
ベッドルームはふた部屋(ベッド数は5)。
「私たちが大事にしているのは、用意された快適さより自分で手を動かすこと。寒いなと思ったら自分で薪ストーブに火をつけて、足りなければ木をくべる。そんな当たり前じゃない過ごし方を楽しんでほしい。おもてなしされるだけでは気づけないことを、ここで体験してもらえたらうれしいです」
田舎らしい不便さは欠点ではなく、滞在の思い出を色濃くするエッセンスのようなもの。
観光地の華やかさや便利さがないからこそ、山香の自然がくっきりと立ち上がり、季節の香りとともに味わえるのかもしれません。
Profile 野口 奈々絵
栃木県生まれ。2019年、地域おこし協力隊として東京都から大分県杵築市へ移住。現在は山香町の築150年の古民家で家族と暮らしながら、〈yamakaoru〉と〈matai〉の2軒の宿を営む。国東半島に伝わる七島藺(しちとうい)の編組技法を学び、雑貨などの制作も手がけている。
Information
yamakaoru
address:大分県杵築市山香町野原2615-1
料金:1泊朝食付き1名12100円〜
Instagram:@yama.kaoru
Information
matai
address:大分県杵築市山香町倉成2860
料金:施設料10000円+1泊1名13000円〜
Instagram:@ma_ta_i_
*価格はすべて税込です。
credit text:川上靖代 photo:木寺紀雄
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