8月16日の夜は、京都の人にとって特別だ。「五山送り火」-。京都を囲む三方の山を見上げ、夜空を照らすかがり火を見つめ、近しい人を偲び、安寧を祈る。その特別な夜、東山に赤々と燃える「大文字」を望む京都新聞社サロンルームで、THE KYOTOの連載企画「THE CONCEPT」を担う現代アーティスト、ナカヤマン。さんとともに、さまざまな表現者に京都で送り火を見つめることについて、あらためて考えてもらった。

【出席者】

ナカヤマン。(現代アーティスト)

井上雅博(京表具伝統工芸士・井上光雅堂3代目)

岡嶋かな多(作詞家・作曲家・音楽プロデューサー)

澤山モッツァレラ(マーケター・編集者)

高橋愛(「南船場よすか」「祇園ひづき」店主)

野村将揮(ハーバード大学デザイン大学院・京都哲学研究所)

ピエール中野(ミュージシャン・「凛として時雨」ドラマー)

 

 -京都の人にとって大切な送り火。井上さんは子どもの頃から目にしてこられましたね。

京都の空間全体で祈る

井上雅博

 そうですね。この近くにおじいちゃん、おばあちゃんの家がありまして、小さいころからこの辺で遊んでいたんです。今日ここに来させてもらう時も、母が「お祈りしてきてな」と言っていました。自然にみんなで「大文字」の送り火を迎える。そんな感じですね。

 お盆の時は、ご先祖さんが家の仏壇に帰ってこられて、大文字の時に戻られますが、京都タワーが(先祖を供養する)ロウソクにも見えると聞いた時、すごく広がりを感じました。京都全体の空間で、ご先祖さんに向けて、大文字の、お盆の、お祈りをしているように思います。

 

 -高橋さんは京都に来られてどのくらいですか。

いろんなストーリーがある

高橋愛

 9年ぐらいです。送り火は、お店の屋上から見たりしていますし、一昨年はお友達のアーティストの方の家の屋上から見ました。それぞれの場所で見る角度が違いますし、見える山も違うので、いろんなストーリーが毎年あるのかなと思いながら拝見していました。手を合わせてこそいませんが、心の中では送る気持ちでいます。ご先祖さまが帰っていかれるなという気持ちにもなるので。

 

 -東京に比べればもともと京都の夜は暗いんですけれども、外を見ていただくと、今夜はさらに暗くなっています。京都市などがライトダウンを呼びかけているのです。

ピエール中野

 なるほど、まち全体で協力しているんですね。

日本的思想の表現

ナカヤマン。

 ボクは、京都の行事では大文字が一番好きなんですよ。送り火がある8月16日は、海外にいる時以外は必ず京都に帰ってきます。見ていないのは生涯で5回もないと思いますね。実家に住んでいた時は家族と「ご先祖さん帰っていくなあ」みたいな感じで見て、火が消えたらぞろぞろ家に入る。そういう日が年に1回とはいえ日常の中にあったことの影響は、現代アーティストを始めてから特に実感しています。

 次の作品の件で今調べているのは、日本的シンクレティズム(異なる信仰や文化、思想を混交させること)です。分かりやすいところで言えば、神仏習合がそうです。勝者の宗教や文化が、上書き的に生き残るのではなく、共存したり、混ざったりするのが、日本の強みになっていると思います。

 大文字も仏教的に見えて、実は(神道の)鳥居形があるというシンクレティズムの結晶だと感じます。明治以前は、もっと違うモチーフ、いろはや、竹に鈴がついた図形もあって、自然な日本的思想が表現されていたようですね。作家としての自分の考え方やテーマ、モチーフの選び方は、京都に生まれて日常生活の中で何かを学んでいたのだと今なら思えます。

 -岡嶋さんは初めての送り火を、どんなふうに思っておられますか。

精神性に触れたい 思い強く

岡嶋かな多

 昨日まで青森に帰省していました。青森ではお盆の習慣がまだ残っているので、親戚が集まって昔話に花が咲くんですけど、夫が今回恐山に行きたいというので行ってきました。そこには湖があって、死後の世界と繋がっている場所、入口の場所と言われているところで、三途の川という名称もあるぐらいです。着いた時に、風が急に吹いてきて、湖が波立って光がぶわっと来たんですよ。ちょうどお盆の初日で、魂が帰ってきているみたいだなと思いました。もちろん感覚だけですけれど。お盆の始まりを青森で感じて久しぶりに親戚にも会って、そして、今日は送り火でしっかり(精霊を)送れるって、なんてお盆らしいお盆を過ごせたんだろうと思いますね。

 最近、海外に出向いて楽曲制作するようになって、国を背負って楽曲を作る感覚がどんどん強くなっているので、精神的にそういうものに触れたい気持ちが強くなっているのかなとも思います。今日、触れさせていただくというか、見させていただく、体験させていただくことが、きっとどこかしらでまた脈々と続いていく、形になっていくんだろうなという感覚です。

 

 -ピエールさんは、普段は東京にいらっしゃると思いますが。

運命的出来事 生きている実感

ピエール中野

 この間、大阪にライブ見に行って、次の日名古屋でライブだったんですけど、京都に立ち寄ったんですよ。タクシーの運転手さんに「京都来るんだったら、送り火を見といた方がいいよ」と言われたんです。送り火は見たこともないし、見てみたいなとずっと気になってたんです。実は今年、母親が亡くなったんですよ。身内が亡くなるのは初めてで、葬儀からいろいろな過程を経ていくのも初めての経験だったんですが、今回、初めてのお盆で自分の実体験と重なっていくのと、運命めいたものをすごく強く感じる出来事だなと思っています。

 こうやって足を運んで、送り火を見させていただく。そういうことが体験できる、その場にいられることが、本当に生きている実感があるとも感じます。元々、そういう儀式的なものに対して敏感ではなかったんですが、ここに来て、ちゃんと向き合わなきゃいけないんだなと思ったので、いいきっかけになりました。

 

 -澤山さんも初めてということですが、いかがですか。

歴史と接続される瞬間感じ

澤山モッツァレラ

 東京でずっと過ごしていると、歴史と接続される瞬間というのがそんなにないんです。特に今、僕はデジタルマーケティングをすることが多いので、ずっとパソコンを見ていて、あっという間に1日が終わって、気が付いたら夜ということがよくあるんですね。ちゃんと1回ここで区切りをつけて、自分がどういう歴史をたどってきて、誰から生まれて、どういうふうに育てられたのかを振り返るのは、人間にとって絶対に必要だなと最近思っていたところでした。こういう行事がずっと残っていて、しかも、皆さんがライトダウンに協力してこの日を迎えている。やっぱり京都は素晴らしい場所ですね。

 僕は広島出身なんです。広島にとって8月6日(広島原爆投下の日)と8月15日(終戦記念日)はすごく大切な日なんですが、京都にとっては今日なんですね。

 

 -そういう蓄積を見てこられた野村さんは、どう感じますか。

伝統の所以に想いを馳せる

野村将揮

 風物詩や伝統が、なぜ風物詩や伝統たりえたのか、こういう機会にじっくり想いを馳せてみるのもいいのだろうと思います。新規性や目新しさみたいなものが自己目的化される世の中になっているので、なおさらです。

 ただ「古い」というだけで価値があるのだと思考を止めてしまうのは、もったいない。誰かが価値や美や意味を定義し、歴史の淘汰の中で、継承し広めようとしてきた蓄積が現在です。そういう意味でも、この送り火もそうですが、いわゆる京都的なものの深みは研究者としてはすごく掘りがいがあります。

 あまり明言されないのですが、そもそも、法令に則らない形で、立ち入りや航空の自粛を要請したり、町の照明を暗くすることを呼び掛けたりするのは、現代においては時代錯誤と捉えられてもおかしくありません。それでも、この送り火という行事を大事に思う気持ちが暗黙に共有されていて、それぞれの小さな我慢や配慮の蓄積につながっている。ここにこそ、京都のまちの歴史や文化への本当の敬愛があるんですよね。

 だから、「ああ、山焼いとるわい」で終えるのではなくて、この行事を成立させているものについて想いを馳せてみるといいと思います。神なのか、仏なのか、お天道さまなのか、あるいは世間やご町内なのか。これらの明文化されていない価値観が深く根付いているのが京都の強みであり深みだと思っています。

 

澤山

 これだけ長く残ってきたのは、大多数の人に支持されてきたからですね。支持される条件の一つに「美しい」ことが絶対あると思うんです。美しくないものは因習と言われ、排除される運命にある。けれど、残ってきたというのは、日本人の美意識に触れるものが強くあったからだと思います。

野村

 スマホで写真を撮ってインスタにあげて「大文字なう」と発信するようないまの時代、深く考えたり、感性を働かせたり、随想として書き残したりといったことが減り続けています。SNSなどですごくお手軽に発信・受信できてしまえるから、すごくチープな言説が増え続けている。自分自身の思想的解釈や、自分に引きつけた価値観の投影としての言葉を、意識的に守っていかなければならない。文化や伝統も、写真を撮るだけのイベントに貶められて、本来の価値が奪われ続けていくように感じます。

ナカヤマン。

 難しいよね、拡散する機能自体は裾野を広げるという効果はある。ならば山の上部をどうやって補うかというポジティブな考え方もある。大衆化とハイエンド拡張を交互に繰り返すことで「伝統」というパイを拡大することも可能かもしれません。日本はそれをうまくやってこなかった。インスタに上がる前提があるなら、こういうキャプションまでつけた方がカッコよく見えるとか、英文でポストした方が「いいね!」が多くなるという表層的なアプローチだとしても、実は触媒的に機能する方法はあるんじゃないかな。それこそ「大文字焼き」って書いたら、京都人にバカにされるよ、とか。AI時代にはそれくらいの遊びは期待したいですよね。

野村

 おっしゃる通りです。裾野が広がることは一般的にはいい。その後、ハイエンドを引き上げたり、全体のリテラシーを底上げしたりもできるはずなんです。でも、いまは裾野の広がるスピードが速すぎて、これに間に合う形で手が打てていない。

澤山

 現代は、小さな物語がすごく乱立している社会だと思っています。大きな物語自体が素晴らしいわけでないけれども、共通基盤としての大きな物語は人間にとって必要なことだと思っていて、それがどんどんなくなった結果、インスタに大文字上げて終わりのように、ちゃんと味わえない人たちが増えていると思うので、どうやってその大きな物語をもう1度浸透させるのかというのは難しいとこだなと思っています。

野村

 テーマパークの花火と送り火は決して同じものではないはずなんです。

手触り感取り戻すこと必要

澤山

 全く同列に並べられてしまうんですよ。そこの重み付けをどうやっていくのかは難しい。デジタルデバイスから離れる日をどうにかして作るというのは1つの解決策だなと思いました。結局、デジタルデバイスは0、1なので、全てを等価にしてしまうものだと思います。一度手放して、手触り感みたいなものを取り戻すことが必要だと思いますし、身体性ということかもしれないです。

ナカヤマン。

 山に「大」と書いた。これでデザインが成立しているのが不思議。写真に撮っても、うちわに描かれても、なかなか良いデザインですよね。でも実際に体験する「大文字」は別なんです。体験すると儀式を感じます。まずデザインと儀式が両立することはそう簡単ではありません。

 良いデザインは皆が関わりたくなりますね。しかし良い儀式はより深い何かを与えます。もちろん1回の体験では何もならないかもしれない。でも10年経ってもう1回見た時に、「あの時は分かってなかったな」って思うかもしれない。繰り返される儀式の意義はそういうところにあると思いたいです。

野村

 京都から離れた「京都論」を増やしていく必要があるのだと思います。京都を好きな人だけの議論だと、やはり限界がある。たまたまご縁あっていらした方に京都を楽しんでもらって、それぞれの視点で言葉にしてもらい、どんどん伝えていってもらうことも大切ですね。

   ◇

 闇が一層深まってきた。雨上がりの夜空に、「大」の字が、続いて、「妙法」と順に送り火がともされた。出席者はそれぞれの思いを抱え、静かに送り火に向かった。

 

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