特集:あの夏があったから2025~甲子園の記憶
矢崎良一
2025/08/23
(最終更新:2025/08/23)
青森山田から亜細亜大に進んだ関浩一郎(左、撮影・有元愛美子)と原田純希(右、撮影・小林一茂)
昨年は選抜大会でベスト8、選手権ではベスト4と、春夏の甲子園であわせて5勝を挙げた青森山田。この快進撃を牽引(けんいん)したのが、ともに亜細亜大学に進んだエースの関浩一郎(1年)と4番打者を務めた原田純希(1年)だった。2人に3年間の高校野球生活を振り返ってもらった。
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「絶対負けられない」と気合が入った八戸学院光星戦
――2人が出場した甲子園から1年が過ぎましたが、あの夏の記憶は今も鮮明ですか?
原田純希(以下、原田):そうですね。割とはっきりと覚えています。
関浩一郎(以下、関):僕も結構ちゃんと覚えていますよ。試合のいろんな場面、「ここでこんなことがあったなぁ」とか。今年の夏も、山田の試合はずっと気にしていました。昨年のメンバーから2年生も多く残っていたし、2年連続で行けると思っていたんですが……。
※青森山田は今夏、青森大会の準決勝で優勝した弘前学院聖愛に敗退
原田:その試合は配信で一緒に見てました。以前は青森と言えば、いつも山田と光星(八戸学院光星)の勝負みたいな感じでしたけど、今年は弘前学院聖愛が代表になったし、八戸工大一も強くなっていて。僕らも青森大会の準々決勝で光星と対戦して勝ったのですが、その時点では、まだ「これで行けるぞ」みたいな安堵(あんど)感はなかったですね。
昨夏の青森大会準々決勝で八戸学院光星を倒した後も、安堵感はなかった(撮影・渡部耕平)
関:僕は大会の前、組み合わせが決まった段階から兜森(崇朗)監督に「お前はこことここで行くから、それに合わせておきなさい」と登板する試合を言われていて。だからしっかり調整して、良い状態でマウンドに上がることができました。その光星との試合で僕は完投したけど、純希がツーランを2発打ったので、ヒーローは純希でした。
原田:あの光星戦は「絶対負けられない」と気合が入っていましたね。浩一郎は聖愛との決勝戦で152キロ出してます。
できるまで教えて、あとは自分たちで考えるスタイル
――他己紹介、ありがとうございます(笑)。そもそも2人は、どんな理由で青森山田に進学したんですか?
原田:まず県内でトップと言えるような施設と環境があって、中学の時に「青森山田シニア(青森山田中学の硬式野球部)」に誘われたという縁もあったので、山田のことはずっと意識していました。中学では地元の友達と一緒にやりたかったから、軟式野球を選択して。僕は3人兄弟で兄が2人とも東奥義塾に行っていたので、そこに行くという選択肢もあったのですが、甲子園に行くのなら山田のほうが有利だな、と。
原田は甲子園に出場するため、青森山田にやってきた(撮影・小宮健)
関:僕も県内のいろんな高校からお誘いをいただいた中で、自分のやりたいことができる高校は山田だと思ったので。練習内容やピッチングのことでも、自分でちゃんと考えて取り組みたかったし、それを尊重してくれる環境や監督さんだったんです。山田の野球部は「自主性」というのを一番大事にしているので、そこがすごく自分に合っていました。ただ当時、青森山田シニアが全国大会で2年連続優勝していて、そのメンバーが僕らの学年と一つ下の学年だったので、みんなレベルが高くて、ついていけるのか不安でした。
原田:僕も入学した時は「通用するのかな?」と考えていました。バッティングには自信があったので、そこで勝負するしかないなと思っていましたけど、そんなに自信はなかったですね。兜森監督はよく「守破離」という言葉を使われて。「できるようになるまで教えて、あとは自分たちで考えて作っていく」というような考え方なんです。
関:それが山田の野球部のスタイルです。だから新チームが始まった最初のうちはいろんなことを教えられて、厳しく言われることもありましたけど、年が明けたくらいからは、もう完全に「自分たちで考えてやれ」という感じになりました。練習でも、キャプテンの橋場(公祐)や学生コーチ、ピッチャーだったら僕、バッティングのことだったら純希が中心になって、「これをやっていこう」と決めていきましたね。
関をはじめ、チームは自分たちで考えてスタイルを確立してきた(撮影・有元愛美子)
よく口にしていた「責任」という言葉の真意
――2人は「4番」「エース」という立場で、取材などでもよく「責任」という言葉を口にしていました。それはいつごろから感じ始めたものですか?
原田:僕は1年生の秋に一度4番で試合に出してもらったのですが、そこから急に打てなくなって、スタメンを外されて、守備位置もキャッチャーに替わったりしたんです。でも、2年秋にまたファーストに戻って、4番になってからは、どんなに試合で打てなくても、一度も外されることはありませんでした。
やっぱり「4番」はチャンスで回ってくる打順ですから。試合を有利に進めるために「先制点を取る」ということにこだわっていたので、1、2番が出塁してくれたら、それをしっかりかえすのが自分の役割ということは常に意識していましたね。
関:監督からは「自覚と責任はちゃんと持てよ」という話を、しつこいくらいにされました(笑)。やっぱり自分の立場に対して、行動とかプレーに責任を持たなくてはいけないということはずっと思っていました。
高校時代に言われた「自覚と責任」という言葉を今も胸に刻んでいる(撮影・矢崎良一)
――関投手は、櫻田朔投手(さく、現・法政大学1年)とエースの座を争っていた時期もあったようですが、櫻田君へのライバル意識や「エースは俺だ」というようなプライドは強かったのではないですか。
関:いや、僕はサクをライバルだと思ったことはないです。よく「ダブルエース」みたいに言われましたけど、ちょっとニュアンスが違っていて、僕は「2人で投げきって勝ちたい」という気持ちはすごくあるのですが、じゃあ「2人ともエース」みたいになったら、一人ひとりが弱くなってしまうじゃないですか。だから一緒に頑張っていても、「一番厳しいところで投げるのは自分」と思っていたし、無意識に「エースは俺だから」と思っていた気がします。
関と競い、高め合ってきた櫻田朔(撮影・金居達朗)
マウンドが近く感じ、歓声に力をもらった初の甲子園
――2年生の秋は東北大会で優勝し、翌春の選抜大会に出場しました。初めての甲子園はどうでしたか?
関:練習で初めて甲子園球場に入った時、めちゃくちゃ感動しました。甲子園のマウンドは最高に投げやすかったです。ホームまでが10mくらいに感じましたね。フォアボールなんて出す気がしなかったですね。出しちゃいましたけど(笑)。
原田:僕はそんなふうにピッチャーとの距離が遠く見えたり、近く見えたりはしませんでしたけど、あのお客さんの歓声にはすごく力をもらえました。特に夏は一球一球に対する歓声が他の球場とはまったく違いました。
関:あれは燃えるよね。
選抜のマウンドで力投する関(撮影・新井義顕)
――選抜大会は初戦で京都国際に4-3、2回戦で広陵に6-5と2試合連続でサヨナラ勝ちを決めてベスト8に進出し、準々決勝で中央学院に2-5で敗れました。印象深い試合と言えば?
関:組み合わせが決まった時、広陵に負けると思いました(笑)。(京都国際は)あの時点で夏に優勝するチームだという認識がなかったものですから。初戦でまず、1勝できたらいいな、と。
原田:広陵の高尾響投手(現・トヨタ自動車)は本当にすごかったです。ピンチになったら、明らかにギアチェンジしてくる。どのボールも全部厳しいコースにビタビタ来る感じで、ちょっと打てる気がしませんでした。今まで見てきた中でも、コントロールは一番じゃないかな。
関:山田の選手たちは全国制覇を経験していて、みんなレベルが高かったので、いろんなチームの選手を見ても特にすごいとは思わなかったんですけど、やっぱり甲子園まで来ると違うなとは思いましたね。あの試合はサクが先発して、五回途中まで無失点に抑えてリリーフの僕につないでくれたのですが、そのまま0-0が続いて、「これ、ワンチャン勝てるんじゃねぇ」って思いながら投げていました。
――試合を決めたのは延長十回、無死満塁から原田選手の犠牲フライでした。
原田:七回までチームがノーヒットに抑えられていたので、とにかく1本でもヒットを打って流れを変えたいという気持ちでした。サヨナラの場面は無死満塁だったので、低めには投げにくいだろうと思って、高めのストレートだけを狙っていました。打った瞬間、もう余裕で三塁走者はかえれると思ったので「よし、勝った」と。
広陵の好投手・高尾響からサヨナラ犠飛を放った原田(撮影・西岡臣)
――原田君は選抜の全3試合11打数1安打。調子はそんなに良くなかったようですが、唯一のヒットが京都国際戦の先制タイムリー。無安打の広陵戦でもサヨナラ犠飛。持ってますね。
原田:「チャンスに強い」とはよく言われますけど、そういう場面が好きなのは確かです。気持ち的にも上がるし。基本的には前の打席まで打ち取られていても、あまり頭の中に入れないで打席に入るようにしています。
関:いつも「もってるな」と思いながら見ていました(笑)
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昨夏を振り返る後編は、24日に公開します。
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