1984年、東京・国立競技場で行われた引退試合で胴上げされる釜本邦茂さん。元ブラジル代表ペレさん(左下)も友情参加
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 1968年メキシコ五輪で得点王に輝き、日本サッカー界に銅メダルをもたらした元G大阪監督、元参院議員の釜本邦茂(かまもと・くにしげ)さんが10日午前4時4分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため大阪府豊中市内の病院で死去した。81歳だった。24年9月に体調を崩して入院。一時回復したが、今年6月上旬に容体が悪化し緊急入院していた。通夜と告別式は近親者で行い、後日、お別れの会を開く予定。日本最多の国際Aマッチ75得点を誇る不世出のストライカーが天国に旅立った。

 数々の功績を残した「世界のカマモト」が天国に旅立った。昨年9月に肺炎で入院。6月上旬に容体が悪化して一時心肺停止となったが、そこから一度は持ち直した。強靱(きょうじん)なフィジカルを武器に世界と戦った釜本さんらしく、肺の一部を摘出しながら最後まで闘い抜いた。

 京都生まれの釜本さんはスポーツ万能で、小学校時代は野球でもサッカーでも飛び抜けた存在だった。プロ野球選手を夢見て、中学は野球部に入るつもりだったが、サッカー部の顧問から「野球は日本と米国だけだが、サッカーは五輪もあるし、世界中に行ける」と言われ、翻意。すぐに頭角を現してゴールを量産し「点取りガマ」の異名がついた。代名詞となった右45度から右足でゴール左隅を狙う強烈なシュートなど、自分の型を身に付けたのは山城高から進学した早大時代。左足のシュートも精度を上げるために食事の時も左手で箸を使い、新宿で雑踏をすり抜けて身のこなしを磨いた。

 早大1年時に日本代表入り。64年東京五輪の8強入りに貢献したが、ゴールはこぼれ球を押し込んだ1得点のみでみじめな思いを引きずったという。「たとえ試合に勝っても自分が無得点だったら不満だし、負けてもゴールを挙げていれば満足」が持論。独善的と言われてもゴールという唯一の目的を果たすために手段を選ばなかった。東京五輪の屈辱が、ストライカーとしての強烈な自負を芽生えさせた。

 ハイライトは7得点で得点王に輝いた68年メキシコ五輪だ。毎日100本近くセンタリングを受けた杉山隆一とのホットラインは世界の脅威となり、初戦のナイジェリア戦でハットトリック。開催国メキシコとの3位決定戦でも2得点して日本に初のメダルをもたらした。「3番目のポールに揚がった日の丸がまぶしく見えた」。普段はトロフィーをもらっても友人らにプレゼントしていたが、銅メダルだけは金庫で大事に保管した。

 世界から高く評価されながらもW杯とは無縁。70年メキシコ大会アジア予選はウイルス性肝炎で出場できず、74年西ドイツ大会、78年アルゼンチン大会の予選はケガに泣いた。77年に日本代表を引退。78年からはヤンマーの選手兼監督として日本リーグ202得点という不滅の記録を樹立し、84年に現役を引退した。その後はテレビ番組のキャスターや参議院議員など、多岐にわたって活躍。日本サッカー協会副会長などの要職を歴任、近年はサッカー解説や講演活動などを行っていた。日本スポーツ界は昭和を彩ったスーパースターをまた失った。

 ≪ペレも功績称え引退試合競演≫同じ時代を生きた“王様”も釜本さんの功績を称えていた。84年8月25日に国立競技場で開催された引退試合に、元ブラジル代表の名選手ペレが友情参加。日本リーグ選抜と対戦したヤンマー(現C大阪)の一員として競演し、試合後は西ドイツの司令塔オベラートとともに肩車されて場内を一周した。77年に行われたペレの引退試合には釜本さんが出場し、ともに引退後も親交は続いた。

 ▼三浦知良(JFLアトレチコ鈴鹿) 具合が悪いとお聞きしており、ずっと心配していたのですが、訃報に接しまして本当に残念です。国際Aマッチとしての代表チーム同士の対戦が限られていた時代に日本代表で75得点。目標とするには遠すぎる方でした。心からご冥福をお祈りいたします。

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