公開日時 2025年06月06日 05:00更新日時 2025年06月06日 12:45

家族で台湾に疎開 仲地清成さん(89)・宮古島市 戦世の記憶<読者と刻む沖縄戦>3
現在の平良港

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琉球新報朝刊

 1944年7月7日、サイパン島の戦闘で日本軍が壊滅し、「絶対国防圏」の一角が崩れます。日本政府は南西諸島の子どもや女性、高齢者の疎開を決定します。疎開先は九州と台湾です。

 平良町(現宮古島市)西里で暮らしていた仲地清成さん(89)=宮古島市=は母のマサ子さん、1歳上の兄の清純さん、2歳下の妹トヨ子さんと台湾へ疎開することになりました。「危険だから台湾に疎開すると言っていました。宮古にも『戦争の影』があったんです」と話します。

 宮古の住民が台湾に疎開したのは44年8月から9月にかけてのことです。台湾には母方の叔父が待っていました。仲地さんは疎開の様子を体験記に記しています。

 《母と小学3年の僕と兄、幼稚園児の妹の僕たち4人家族も台湾の総督府に勤務していた叔父を頼って縁故疎開で台湾に渡った。》

 疎開は決して安全ではありませんでした。8月22日には疎開学童を乗せ、九州に向かっていた対馬丸が米潜水艦によって沈められています。仲地さんが乗った船も漲水港(平良港)を出て、警戒しながら台湾を目指しました。

 《僕たちの乗った船は徴用された漁船で、3艘(そう)が連なって出港した。しかし、警戒警報が発令されたのだろうか、船は途中八重山諸島の島影に隠れるように並んで停泊した。翌朝、船は何の合図もなく静かに動き始めていた。》

 船は3日ほどかけて、台湾の基隆港に着きます。

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