[パンプローナ(スペイン) 12日 ロイター] – 鐘が鳴る。合計8回。導火線に火がつけられ、ロケット花火が飛ぶ。囲いの扉が開くと、12頭の巨獣が飛び出してくる。去勢されていない雄牛が6頭、去勢された雄牛が6頭。しだいに足を速めて疾走に移り、石畳の通りにひづめの音が響きわたる。

合図とともに、白い衣装をまとった大勢の走り手たちが全力で走り始める。振り返っては、迫り来る牛の尖った角を避け、血に染まった死を逃れるべく、踊るようにステップを刻む。通りを見下ろすバルコニーでは、興奮した観衆が喝采を送る。

これが有名なサン・フェルミンの牛追い祭りだ。毎年7月、スペイン北部の都市パンプローナの中心部を熱狂の渦に陥れる。アドレナリンと汗、ふんだんに振る舞われるワインとともに乱痴気騒ぎを味わうべく、世界中の祭り好きがこの街に押し寄せる。

一般に「サンフェルミネス」と呼ばれるこの祭りに関心を持った理由として名前が挙がるのが、20世紀米国文学の巨匠の1人による不朽の名作だ。

アーネスト・ヘミングウェイ(1899─1961年)は、ちょうど100年前、初めてサン・フェルミン祭を訪れ、夢中になった。熟練の地元民による牛追いと闘牛、そして享楽的などんちゃん騒ぎに心を奪われたヘミングウェイは、その後1924年から1959年にかけて、8回もこの街を再訪することになる。

1926年の初の長編小説「日はまた昇る」の舞台の一部は、ここパンプローナに設定した。

この街と、パリの米英出身者コミュニティーでの体験に基づいて書かれた本作で、ヘミングウェイは、後に第1次世界大戦後の「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる世代の代弁者としての名声をすぐさま確立する。

「日はまた昇る」で、ヘミングウェイ自身をモデルとする語り手がつづるのは、過剰で、どこか自暴自棄の酒盛りがひたすら続き、時折、闘牛場に足を運んでは血なまぐさい果たし合いを見物するだけの日々だ。

「人生がこれほど早く過ぎていき、そして僕が自分の人生をまともに生きてすらいないと思うとやりきれない」と登場人物の1人が言う。有名なやり取りだ。

語り手は、「自分らしく人生を生き抜くなんて、誰にだって無理な話だ。闘牛士にでもならない限りね」と返す。

ビル・ヒルマンさん(41)は米シカゴ出身の英語教師。走り手として牛から逃げた経験も豊富だ。「日はまた昇る」を初めて読んだときは20歳の大学生だった。読み終わったとき、2つのことを悟った。自分は作家になりたい、そしていつの日かパンプローナの牛の前を走りたい。

ヒルマンさんが初めて牛の前を走ったのは2005年だ。それ以来、走り手の常連だ。

「ここに来て、本当に打ちのめされた。すべて小説に書いてあるとおりだったけれど、10倍もすごかった。規模も、ワイルドさも。それに、小説以上にクレイジーだ」とヒルマンさん。

歳月を経て、ヒルマンさんはヘミングウェイの孫のジョンさん、ひ孫のマイケルさんと友人になった。これまで2回、2014年と2017年に牛の角に突かれたが、それでも情熱は衰えていない。

「つまり何というか、ヘミングウェイの魂を追いかけている。彼の亡霊に取りつかれている感じだ」とヒルマンさん。

シェリル・マウントキャッスルさん(69)が最初に「日はまた昇る」に出会ったのは、ニューオーリンズの高校に通っていた頃だ。この24年間、サン・フェルミン祭を目当てに家族とともにパンプローナの同じマンションを借りている。小説では酒を飲むことが強調されすぎて、祭りのもう1つの側面として、食べ物を分かち合ったり、街路で踊ったりすることなどが抜け落ちている、と指摘する。

生前のヘミングウェイに会ったことのある数少ないパンプローナ市民の1人が、レオンツィ・アリエタさん(91)だ。ヘミングウェイが世を去る2年前の1959年、4回目の結婚相手であるメアリー・ウェルシュさんとともに最後にサン・フェルミン祭を訪れたとき、アリエタさんの家族が2人をもてなした、と話してくれた。

夫妻はアリエタさんの家の3部屋を借り、ヘミングウェイは執筆を進めつつウオッカを飲んでいた。アリエタさん一家は、ヘミングウェイが十字架像を壁から外して戸棚にしまいこんだことに仰天した、という。

<変わったもの、変わらないもの>

パンプローナ住民の間で繰り返されている議論がある。サン・フェルミン祭の期間中、市内がひどく混雑するのはヘミングウェイのせいなのだろうか。彼の作品は祭りの本質をゆがめて伝えているのではないか。この街は、あの小説の成功の代償を払っているのではないか。

昨年のサン・フェルミン祭には170万人が訪れ、割れたガラスや種々雑多なゴミ1200トンが後に残った。牛追い見物の特等席となる人気スポットのバルコニーでは、1人200ユーロ(約3万1000円)の料金を取られることも珍しくない。

パンプローナ生まれのミゲル・イズーさん(63)は、サン・フェルミン祭に関する複数の著作の中で祭りとヘミングウェイとの関わりに触れているが、この作家が祭りの人気に与えた影響は誇張されている、と考えている。

「サン・フェルミン祭が有名になり多くの人々を集めるようになったのは、ヘミングウェイによる部分もあるのは確かだが、それ以前からフランスを中心に観光客が訪れていた」とイズーさんは説明する。

1923年にこの地を訪れたときヘミングウェイはまだ無名だった、とイズーさんは言う。世界的な著名作家になったのは1954年にノーベル文学賞を取ってからだ、と。

イズーさんは、パンプローナ市が今でも街の宣伝にヘミングウェイのイメージを「意図的であるかどうかはともかく」利用している、と認める。「私たちはヘミングウェイを、サン・フェルミン祭の一種のアイコンにしている。ヘミングウェイに言及せずにこの祭りを語ることはできない」と話した。

だが、祭りを訪れる外国人が皆ヘミングウェイの作品に惹かれているわけではない。ソーシャルメディアが盛んになってからはなおさらだ。オーストラリアから来たウィリアム・カッパルさん(23)とその友人たちは、牛追いの刺激的な危険と浮かれっぷりを紹介するユーチューブの動画に魅了された。

ヘミングウェイの名を聞いたことがあるかと問われ、カッパルさんは笑った。

「ないね。検索したほうがいいかな」

1923年に比べれば、多くのことが変わった。たとえば、白い衣装に赤いスカーフとベルトという走り手の服装が流行りはじめたのは1931年以降だ。農業地帯だったスペイン北部では工業化が進んだ。だが、祭りの本質は変わっていない、とイズーさんは言う。

「イルーニャ」など、小説に登場するカフェは、今も祭り好きを温かく迎えている。訪問客は今も宴会に興じ、祈りをささげ、危険極まりない角に突き刺されるリスクなしに牛たちを見物する場所がないか、ごった返す街中を探し回る。

イズーさんは語る。「もし(ヘミングウェイが)生き返ったら、あたりを見回して言うだろう。見慣れないものもあるが、だいたいのところは、昔ながらのサン・フェルミン祭だな、と」

(Susana Vera記者、David Latona記者、翻訳:エァクレーレン)

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