ドル/円レートは足元にかけて円高方向で動いてきた。背景としては、米国の金融市場の不安定化や米ドルレートの全面的な下落傾向だけでなく、米国が貿易不均衡の是正策として「円安是正」を求めるのではないかとの思惑がみられる。井上哲也氏のコラム。写真はインドネシア・ジャカルタで4月9日撮影(2025年 ロイター/Willy Kurniawan)
[東京 24日] – ドル/円レートは足元にかけて円高方向で動いてきた。背景としては、米国の金融市場の不安定化や米ドルレートの全面的な下落傾向だけでなく、米国が貿易不均衡の是正策として「円安是正」を求めるのではないかとの思惑がみられる。
この「円安是正」に関しては、日本の経済や物価、金融市場への影響の視点からさまざまな議論が行われてきた。しかし、交渉ごとである以上、相手の視点に立った場合に有効ないし意味のある政策であるかどうかを考えておくことも重要だ。
<金融安定との関係>
日米の主要メディアが24日に配信したインタビュー記事によれば、ベッセント財務長官は「強いドル」政策を確認するとともに、日本に対して特定の水準の為替レートを要求することはないと発言した。
米国側からみれば、現時点で「円安是正」を持ち出すことは明らかに得策ではない。
第一の理由は、米国の金融市場の不安定性が株価の調整に止まらず、長期金利が大きく上下するなど広がりを持っている点である。ここで、ドル/円レートの下落に拍車をかければ、日本からの対米証券投資を抑制する恐れがある。特に米国債に関しては、最大の債権国である日本の投資家からの買い入れが減速するという思惑だけでも、市場の不安定化要因になりうる。
第二の理由は、米ドルレートは既に下落傾向にあるだけに、「円安是正」はこれを加速しかねない点である。特に、ドルの名目実効レートのうちでドルインデックスのような対主要通貨の方が対全通貨に比べて下落ペースが顕著であることは、米国と主要国との間の資本フローが変化している可能性を示している。ドルの下落にモメンタムを増すことは、米国への資金流入を妨げ、金融市場の不安定性を長引かせるリスクがある。
為替と債権の専門家であるベッセント氏はこれらの点を十分理解しているであろうし、その意味で今回の発言は当然ともいえる。
<貿易不均衡との関係>
トランプ政権にとっての「本丸」である貿易不均衡との関係でも、あえて現時点で為替政策を持ち出さなくても良い理由が存在する。
それは米ドルレートが既に140円台前半まで下落したことだ。足元の水準は昨年夏の160円との対比でみれば約14%の円高である。これはトランプ政権が当初公表した日本向けの相互関税率(24%)より小さいが、それでも理論的には、日本の対米輸出は相互関税が企図したコスト条件の相当部分を既に課されている。米政府といえども為替レートをファインチューニングすることは難しいことも考えると、既往の円高が関税引き上げの役割を既に一定程度果たしていると考えることもできる。
もちろん、為替レートの調整の場合には、関税引き上げと違って米政府が歳入を得ることはできず、その意味で米国の財政への影響は異なる。また、為替レートは市場次第という面があるだけに円安方向に反転するリスクも残る。しかし、後者のリスクは、前節でみたドル安のトレンドがある下で大きくないと考えることもできる。
一方で、貿易不均衡の是正を目指す限り、米国にとっては「円安是正」を政策の選択肢から完全に排除してしまうことも得策ではない。
これから本格化する日米間の交渉では、安全保障関係を措くとしても、米国はさまざまな輸出品に対する日本市場へのアクセス改善を求めることになる。市場メカニズムの下で米国の対日輸出が低調であったにも関わらず貿易不均衡を是正するには、日本国内でのさまざまな規制や制度の変更が必要との議論となる可能性があり、既にそうした兆候がみられる。
しかし、規制や制度の大半は日本の企業や家計が活動する上で必要であるから存在するのであり、その変更には多くの政治的な努力が必要となる。これに対して、現在の日本の政治状況がそうした課題を克服しうるかどうかには不透明な面も残る。
米国側がそうした状況を理解しているとすれば、日米間の交渉が進捗しなかった場合に備えて、「円安是正」のカードがあることを示しておくことの意味は存在する。
<米ドルへの信認>
最後に、米ドル自体の観点から米国の為替政策を考えておきたい。
米国の基本方針である「強いドル」政策はドル高政策と混同されることも多いが、本質はドルに対する信認の維持である。実際、ベッセント氏が「強いドル」政策を確認した際も、現在のレートや購買力平価といった特定の水準に対する問題ではないと述べている。
ドルへの信認は、海外から米国への投資の前提条件であるだけでなく、安定的で低コストな資金調達を通じて米経済の国際競争力を支えるほか、米国の金融政策による海外経済への影響力や、軍事介入や経済支援を効率的に行う上での基盤でもある。つまり、国際通貨としてのドルの地位にとって不可欠な要素である。
しかし、皮肉なことに、トランプ政権は国際通貨が具備すべき特性のうち、法の支配や政策や規制の予見可能性を自ら毀損(きそん)している面もある。また、ベッセント氏は否定したが、米政権が為替レートの調整を示唆したこと自体、かつて欧州危機の際に人為的なユーロ安政策を採ることは国際通貨としてのユーロの信認に影響するとの批判があったことを思い起させる。
もちろん、その他の特性である経済や安全保障面でのプレゼンス、巨大で流動性の高い金融市場などの面で、米国の地位を直ちに揺るがす競合相手は存在しない。しかし、米財務省のデータが示すように、足元で海外の公的当局(外貨準備や年金基金等)による米国債保有の減少が顕著になっていることは好ましい兆しではない。
より広い視点に立てば、米国が安全保障面で日本や欧州に応分の負担を求めている点に関して、米国が「国際公共財」を主体的に供給し続けることのメリットに疑問を感じ始めているのだとした場合、同じく「国際公共財」である国際通貨としての米ドルの地位の維持にこだわるのかという疑問もあろう。
筆者は、少なくとも現時点では、国際通貨としてのドルがコスト以上のメリットを米国にもたらしていると考える。実際、トランプ大統領も、米国との関係が良好でない諸国による国際的な資金決済網の整備に対して、極めて強い警戒を示している。
それでも長い目で見て、政治的な対立に関わらず、米経済の世界におけるシェアの緩やかな低下に伴い、米国に直接的な関係を持たないサプライチェーンが徐々に構築されていった場合、ドルが国際通貨としての地位を維持するためのコスト、特に米国の経済政策に関する自由度の制約も徐々に増大し、米政府にとって自国経済圏のみで通用すればよいと考える段階が来る可能性はある。
英ポンドとドルの関係を振り返っても、国際通貨の変化は競合相手に負けるのではなく、自らの要因によって地位を明け渡す方が蓋然(がいぜん)性は高い。「為替政策」という点では、日本を含む主要国は、米国が長い目で見てドルの国際通貨としての地位をどのように考えているかを探ることも重要となる。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*井上哲也氏は、野村総合研究所の金融イノベーション部シニアチーフリサーチャー。1985年東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。米イエール大学大学院留学(経済学修士)、福井俊彦副総裁(当時)秘書、植田和男審議委員(当時)スタッフなどを経て、2004年に金融市場局外国為替平衡操作担当総括、2006年に金融市場局参事役(国際金融為替市場)に就任。2008年に日銀を退職し、野村総合研究所に入社。金融イノベーション研究部・主席研究員を務め、2021年8月から現職。主な著書に「異次元緩和―黒田日銀の戦略を読み解く」(日本経済新聞出版社、2013年)など。
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