【探訪】日が出ずる島に希望の架け橋 宮城・女川 東日本大震災14年

東日本大震災で大きな被害にあった宮城県女川町。昨年12月、離島の出島と本土の間に橋がかかった。出島大橋。全長364メートル。陸続きになることは島民の悲願だった。
 震災の津波は島沿岸部を襲った。集落と漁港が壊滅し、25人が犠牲になった。住民は翌日、ヘリコプターで島から避難した。
 架橋は50年近く前から待ち望まれてきた。なかなか進まなかった事業だが、震災を経て進展した。開通後、島の暮らしは大きく変わった。これまで島と本土を結ぶのは1日3便の定期船だけだったが、島民は「時間を気にせず町まで行ける」「子や孫と会いやすくなった」と喜ぶ。
 島の主要産業である漁業にとってもメリットは大きい。対岸の漁港まで船で運んでいた養殖のギンザケやホタテは、陸路で運べるようになった。燃料代も大幅に浮くと島の漁師は口々にいう。カキ養殖の武山孝広さん(52)は「体も楽になった。高齢の漁師たちも続けていきやすくなったのではないか」と話す。
 離島では急病人が出たら、海が荒れていても誰かが船を出さなければならなかった。サイレンを鳴らした救急車が島に来たとき、武山さんは「命を救う橋」だと実感したという。
 ただ、人口は震災前の500人から90人に落ち込んでいる。
 「もっと早く橋ができていればここまで急激に人口は減らなかった」
 寺間地区の区長、須田菊男さん(76)は話す。小中学校が閉校し、若い世代は島外に移り住んだ。島を仕事場にしている漁師たちも通えるようになり、住む必要性は少なくなった。
 「それでも夢は広がる。島の自然を楽しめる遊歩道を整備して、外の人を呼び込んでいきたい」と須田さん。橋の開通と同時に島に移住してきた若者がサウナをオープンするなど新たな動きも出てきている。
 震災から14年。
 島名の由来は「日が出ずる島」ともいわれる。
 日はまた、昇る。

3 Comments

  1. 支店へ支援物資届けに宮城へ行きました。地元民では無いですが、惨状目の当たりに見て涙出てて来たの思い出します。14年経って生活が豊かになって来てますね小春日和過ごして下さい😊
    がんばろう東北!

  2. 14年経って住むところに困っていると東京都が一時的にタワマンを一時非難的に貸したところ退去するよう勧告しても未だに住んでいる人もいると聞いた。人の善意をどう思っているのか?と疑問を感じる人もいることも事実です。