~開封…「伝説の芸人」の記録映像~ マルセ太郎…“ふるさとへの旅”と“がん闘病”|TBS NEWS DIG

「肝臓がんで良かった。舞台に立ち続けられる…」病に襲われた「伝説の芸人」は、”人生初めての旅”の支度をしていた。

父母の祖国からの招待公演。日本映画の上映が禁じられていた当時の韓国で、日本の名作全編を体一つで模写し、演じ、伝え切るという「マルセにしか出来ない孤高の芸」に挑む。

ソウルで、済州島で、がんを押さえ込みながら舞台にのぼり続けた芸人が見つけたものは…。

(1998年12月放送 「報道特集」より 取材:赤阪徳浩)

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マルセ太郎さんはこの放送から約2年後、2001年1月22日にこの世を去った。
「報道特集」ディレクターとして取材を担当した赤阪徳浩による取材後記を掲載する。
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-トルハルバン(石のおじいさん)-

1998年の初夏から秋にかけて、マルセ太郎さんが韓国の演劇祭に招かれ、両親の故郷を訪れての公演を取材、TBS「報道特集」で放送した。撮影に先立ち、一度会おうということで、当時東京・狛江にあったマルセさんのお宅を訪ねたのが同年春。

私たちを前にした彼の第一声は「がんとか在日とか、そういうことが前面に出てくる企画ならお断りしたい」というものだった。自分の人生について、闘病や出自ばかり映す、ステレオタイプの切り取り方をするテレビ屋ならお断りだ」という宣言だったが、それはこちらも望むところだった。64年(当時)もの人生経験を積んできた「伝説の芸人」を取材するのに、その出自やら患った病気しか見ないような、甘い番組制作者ではないという気負いもあった。そしてこの出会いの時から”古狸マルセ太郎“と”TBS若造取材班3人“の間で腹の探り合いが始まった。

ディレクターの私もカメラマンも音声マンも、何の因果か揃って32歳。ちょうどマルセさんの年齢の半分で、彼の舞台も見たことがなかった。芸人としてのマルセさんについて“洞察する”にはあまりに知識が乏しく、中途半端なドキュメンタリーを作っても全国の“中毒患者”さんたち(マルセさんの芸を愛するファンはそう自称する)”に鼻で笑われるのがおちだ。ならば自分たちは舞台の下のマルセさんの、生きる姿を撮ろう、と話し合った。64歳に32歳×三人で挑んでみようじゃないかと。

取材中のインタビューはマルセさんの出身地の言葉、大阪弁で行こう。素のマルセさんの片鱗を見せてもらうには、その問いかけ方が何らかの助けになるかも…(私も大阪の出だし)。現に最愛の奥さんと話す時のマルセさんは、ただの大阪のおっさんの表情を浮かべている、そんな人間マルセ太郎の瞬間を拾い、紡いでいきたい…。

カメラの前のマルセさんは、ただただ手強かった。韓国公演について通訳者と自宅で打ち合わせという時のこと、お宅にお邪魔したがマルセさんは留守。聞けば通訳者を駅まで迎えに行ったという。のちにマルセ公演スタッフがこっそり教えてくれた。「普通は出迎えなんかに行く人じゃないんですよ、でもマルセさん“あの赤阪というディレクターは割に細かいシーンを欲しがるから、こういう場面も要るだろう”って、わざわざ駅まで出掛けたんです」。こちらの取材のスタイル、ある種の“癖”を読んだ上で、シーンを演出した?古狸の面目躍如だ。でもねマルセさん、さすが名演ですけど、そんなわざわざ作ったシーンなんかワシら要りまへんねん。クサい芝居せんといてぇな…。取材の場ではこんな腹の探り合いが続いた。今、ええこと言うてはるけど、これはマルセさんの「カッコつけ」の顔やな。そんなの使いませんよ…、等々、生意気にも程がある言葉を言い放ちながら、マルセさん一流の「虚実の被膜」を一枚一枚外していって、本名のキム・キュンボン、日本名の金原正周、芸名マルセ太郎が混ざり合わさった等身大の彼を掘り出すの試みは、ひと苦労であると同時に大きな楽しみだった。マルセさんは苦笑いを浮かべながら、悪戦苦闘する青二才どもに辛抱強く付き合ってくれた。

岐阜、広島、大阪、山梨。いろいろな旅公演に同行させてもらい、いよいよ父祖の地韓国での公演へ。忘れられない場面がいくつもあった。

ソウルの街角で、若者が年長者を大切にする様子を見て、その美風に感心していた。済州島で通りかかった小学校で、子供達の民族音楽と舞踊に見事に溶け込んでいた。海辺でのインタビューでは「オフクロが海女として潜っとった海や。やっぱり来てみんといかんね…」とも。マルセさんにとって恐らく最も印象的だったのは、初めて会った親戚のお婆さんから「アバン(済州島の方言でお父さんの意味)が“顔だけ帰ってきた”」と言われたことだろう。 半世紀も前に国を出て行き、日本で亡くなった父親の面差しを息子のマルセさんに認めた一言「顔だけ帰ってきた」は、楔のように刺さったと思う。「“血”やね…」とマルセさんは言った。自分の顔が紛れもなく“血の証し”になっていることを実感した一人の人間として、マルセさんは済州島にいた。

韓国から戻って、その年の末に番組を放映した後、私には大きな悩みができてしまった。この後さらにマルセさんを追いかけドキュメンタリーを作りたい。だがその願いを申し出た時、マルセさんは問うに違いない。「では次はいつまで、どこまで取材をするのか君は…」あなたの人生の最終章を見届けたいんです、とは口が裂けても言えなかった。それまでもがんの検査、治療のシーンも数多く撮影させてもらっていた。そうした場面は、以後取材を続ける中でもっと増えていくだろう。そしてそれは「がん闘病ばかりを撮られたくない」と言っていたマルセさんの意思を損ねることになる。以後折りを見て芝居の楽屋を見舞い、とりとめのない話をしながらも取材継続を申し出られないまま、2001年1月のあの夜、訃報に接した。

マルセさんの姿を最後まで追い続けた写真家がいる。角田武さん。私たちよりはるかに長く芸人マルセ太郎をファインダーに捉え続けた人だ。葬儀も終わってしばらく経ち、TBSを訪れてくれた角田さんに、取材を続けられなかった自分の不甲斐なさについて打ち明けてみた。いつもは柔和な口調をやや強めて彼はこう言った。「赤阪さん、本当に惜しいことをしたよそれは。ちゃんと取材お願いしなきゃダメじゃないか。マルセさん、君なら撮らせてくれたかもしれない。よく君の話をしていたんだ。“赤阪ならこのシーン、こんな風に撮るだろうな”とか。その機会を前に怖がっていたなんて、取材者としてどうなんだ?」

そんなことがあったのか、そんなことを彼は言っていたのか。心がチクンと痛み、涙がわいた。でも、今となっては全ては仮定の話だ。もし取材を続けられたら、マルセさんはどんな顔を見せ、どんな声を聞かせてくれただろう…。答えの出るはずもない自問自答は、恐らく一生続くと思う。

済州島には民俗石像として「トルハルバン(石のおじいさん)」というのがある。帽子を被り、ギョロ目の石像は、見れば見るほどマルセさんにそっくりだった。韓国の公演旅行の記念にと、土産物屋で小さなトルハルバンを買ってマルセさんに渡した。「そっくりですよ」と言うと、マルセさんはただでさえ眼光鋭い目をさらにむいて、顔真似をしてくれた。小さな石像はマルセさん宅の門柱の上に置かれ、その後長らくにらみをきかせていた。

思い返せば、あのマルセ太郎と「腹の探り合い」をさせてもらえたというのは、私の取材者人生最大の幸せだった。一番組をきっかけにした出会いだったが、それ以上のお付き合いが出来たのではないか。こちらがそう気負えば気負うほど、マルセさんがどこかで笑っているような気がする。「君もまだまだやな…」と。マルセさん、私もそろそろ取材させてもらった頃のあなたの年代に近づいてるんです。でも、ホンマにまだまだですわ。

赤阪徳浩 TBS「報道特集」ディレクター(取材当時)

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