「被災者であって、被災者でない私」が語る東日本震災 聞き手に“目線合わせる”女子大学生の語り部

東日本大震災からまもなく14年。あの日、岩手県釜石市の小学校で巨大な揺れに襲われ、現在は静岡県内を中心に語り部活動をしている女子大学生がいます。「海の近くにいたら、命を落とした子どもの一人になっていたと思う」津波の直接的な被害は経験せず、自らを“被災者であって被災者でない”と称する語り部は、当時の自分と同じ、津波を知らない人たちに目線を合わせて言葉をつむぎ続けています。

「体感したことがないような巨大な揺れだった」“当たり前”を奪った震災

「本当は友達と遊んでいたかもしれない放課後、家族と一緒にご飯を食べていたかもしれない夜。そんな当たり前の日常が、突然消え去りました」岩手県の沿岸部・釜石市出身で、静岡大学4年生の髙橋奈那さん(23)。震災の教訓を伝える髙橋さんの語りは、“当たり前の尊さ”を訴えることから始まります。力強く言葉を発する高橋さんですが、この14年間、防災の見つめ方に関してさまざまな心境の変化がありました。東日本大震災が発生した2011年3月11日。小学3年生だった髙橋さんは、午後2時46分、通っていた釜石市立小佐野小学校の教室で大地震に見舞われ、同級生と一緒に机の下に隠れました。「体感したことがないような、隠れていた机を抑えていても今にも飛んでいきそうなほどの巨大な揺れだった」と冷静に振り返ります。揺れがおさまったあとは、先生の指示のもと、全校児童約250人が校舎の外のグラウンドに一斉に避難しました。その後は何度も余震に襲われ続け、周りには「先生怖いよ」と泣き出してしまう児童も。「3月の寒さも相まって、不安や怖い気持ちが増していた」と思い返す髙橋さん。少しでも安心感を得られるようにと、みんなで縮こまり体を寄せ合って、暖を取りつつ身の安全を図りました。母親と祖母が学校に迎えに来たのは、最初の地震の発生から約1時間半後。「家族の顔を見た瞬間、とても安心したのを鮮明に憶えている」。そう語った髙橋さんの表情は、少しだけ緩んだようにも見えました。

父親と2週間連絡がとれず…初めて“身近な人の死”を連想

その後は自宅で避難生活を続けた髙橋さん。ガス・電気・水道が一切使えない中、しばらくの間、母親と祖母がカセットコンロを使って温めたご飯を食べていました。なんとか食料は確保できていましたが、一つ大きな不安がありました。震災後、別の場所にいた父親に何度電話をかけても応答がなかったのです。避難所や安否が確認できる施設をくまなく回りましたが、当時父親が働いていたのは、大規模な“津波火災”に襲われた地域である山田町。「巻き込まれてしまったのではないか」。そんな考えも頭をよぎりました。結果的に2週間後、父親の無事も確認できましたが、髙橋さんは当時の心の揺れ動きを鮮明に覚えていました。「今まで感じたことがない不安で、生きているかも死んでいるかもわからない、初めて“身近な人の死”を覚悟した出来事でもあった」。

“あの日、私が海の近くにいたら生きていたのかな” 防災の道へいざなった友人のひと言

“地震の話はしてはいけない”、大切な家族を失った友人も多い中、震災後はそんな雰囲気が漂っていたと言います。話すことがなくなったことで自然と震災の記憶に蓋を閉じるようになり、防災についての関心も薄らいでいきました。そんな髙橋さんを防災の道に導く出来事がありました。高校生の時、学校の課外活動に参加し、釜石市内の内陸部に住んでいた友人が防災について発表している際に不意に放ったひと言がきっかけでした。「あの日、私が海の近くにいたら生きていたのかな」髙橋さんは、この問いかけを決して他人事とは思えなかったと言います。というのも、震災時に髙橋さんがいた小学校も海から5キロほど離れていて、自身も津波を
見ておらず、その直接的な被害を経験していません。「どう逃げたらいいかもわからなかったし、怖くて動けなかったかもしれない。海の近くにいたら、命を落とす子どもの一人になっていたと思う」震災前は、津波に関しての防災教育を受けたことがなく、津波がどんなものかも理解できていませんでした。改めて震災について見つめ直す中で突き付けられた“知らないことの怖さ”。「誰もが、どこにいても津波から生き延びられるようになってほしい」その思いを結実させるために、防災を呼び掛ける立場になりたいと考えるようになりました。

“被災者であって、被災者でない私”語り部として活動する葛藤

髙橋さんが高校卒業後の進学先として選んだのが、静岡県です。「『南海トラフ巨大地震』による甚大な被害が想定される地域で多くの人の防災への関心を高めたい」大学1年生の時に釜石市の研修を受けて「大震災かまいしの伝承者」と銘打った語り部としての認定を受けたほか、「静岡大学学生防災ネットワーク」という大学のサークルにも所属しました。「“未”だ被災していない地」そして「“未”来に被災が懸念される地」という意味で、静岡県は、いわば、“未災地”。「巨大地震に備え、津波避難ビルなどハード面の対策も進んでいて、何より被災地の教訓を学びたいという意志を強く感じる。未災地・静岡県の防災意識の高さに驚かされた」と、さまざまな形で震災伝承と向き合う中、多くの発見もありました。一方で、震災伝承に向き合う上で、苦悩することも。大学2年生の頃に、静岡県内で語り部活動をしていた時、聴講していた人からこんな言葉をかけられました。「津波から逃げた人の話を聞けるかと思っていた。想像していた内容と違った」自らを“被災者であって、被災者でない”と称する髙橋さん。「“直接津波を見ていない自分が伝承に関わっていいのだろうか”という自分の中で葛藤していた部分を突かれたようだった」と打ち明けます。語り部を続けるべきか迷うこともあったと言いますが、そこから救ったのも、髙橋さんの語りを聞いた人の言葉でした。「私の子どもも、当時の髙橋さんと同様に津波を知らない。災害時、子どもたちが同じ状況に陥るかもしれないと気付けるから、津波を知らない視点での髙橋さん
の話もすごく大事だと思います」。小学生などを対象に語り部活動をしていた時、ある児童の母親からそんな言葉をかけられました。視界が開けたような気がしたという髙橋さん。「私にしか語れない震災がある」語り部として活動することに自信を持てるようになり、今もこうした聞き手からの温かい言葉を原動力に言葉をつむぎ続けています。

4月からは大学院へ進学 防災を学びつつ“命を守る種をまきたい”

「“未災地”と被災地、それから被災地と被災地をつなぎ、復興の過程も語れる伝承者になりたいと考えています。今度は私が大切な人や場所を守っていきたいなと思って活動しています」大学生としての最後の語り部活動をした2月24日。語り部としてのキャリアをスタートさせた静岡で、こう思いを伝えました。震災伝承のほか、能登半島地震の被災地のボランティア活動などにも参加し、防災に関わる多くの人との縁を紡いできた大学生生活。4月からは千葉大学大学院に進学し、学校や地域との連携の視点から、防災などについてより深く研究したいと考えています。「震災伝承って直接命を守ることにはつながらないかもしれないですけど、命を守る種をまいたり、命を守る連鎖を生んだりすることにはつながると思うので、私自身からそれをつくっていきたいなって思っています」津波は見ずとも、聞き手と同じ目線で防災を見つめ、語り部活動を続けてきた髙橋さん。地道な語りを通じてまいた小さな種が、“誰もが災害から命を守れる社会”として大きく花開くことを信じて、これからもまっすぐに、震災伝承と向き合います。

【あわせて伝え続けたい東日本大震災の記憶】

▽体育館に700の遺体 失った11人の生徒…「この子たちの思いを絶対に伝える」石巻西高元教頭が誓った“残りの人生の役割”▽「一緒に逃げればという気持ち 今も捨てきれない」園児9人が津波の犠牲に “100%守る”園長の覚悟▽「誰も死なないでほしい」1年で教員を辞め、児童を守る“答え”探しに先生は釜石へと向かった

詳細は NEWS DIG でも!↓
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/sbs/1776193

4 Comments