江戸最大の花街、吉原はどんな場所だったのか。現地を取材した歴史評論家の香原斗志さんは「吉原は、女性たちを閉じ込めるために周囲を堀と塀で囲んだ城郭同様の構造をしていた。その様子は今の吉原を歩いても感じることができる」という――。



6000人の遊女が暮らした「吉原」の意外な過去

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の舞台として注目されている吉原。元来は田んぼのなかに造成された人工の町でした。


元和3年(1617)、江戸ではじめての遊郭として誕生した吉原は、現在の日本橋人形町のあたりにありました。しかし、当初は葦が生い茂る湿地帯でしたが、江戸の町が急速に拡大し、吉原も人家で囲まれるようになると、幕府は明暦2年(1656)、治安の悪化や風紀の乱れを恐れて、移転させることにしたのです。


幕府が提示したのは、本所(墨田区南部)と浅草寺北方の日本堤(隅田川の水害を防ぐ堤防がそう呼ばれた)に沿った千束村(台東区千束)でした。吉原側は拒んだものの、幕府には逆らえません。隅田川を渡らずに済み、本所よりは元の吉原から近い日本堤が選ばれることになりました。


移転したのは、明暦3年(1657)に江戸の7割を焼き尽くした大火後のこと。営業可能な土地が5割増しになり、それまで禁じられていた夜の営業が許可されるなど、吉原側にもメリットはありました。


こうして、いまの台東区浅草7丁目から三ノ輪まで、北西に向かって1.4キロほど続く日本堤の中ほど、西側の田んぼのなかに、1万人が暮らし、そのうち多い時期で6000人が遊女だった特殊な町、吉原が誕生したのです。東西327メートル、南北245メートル、総面積2万760坪。当初の元吉原に対して新吉原と呼ばれました。


昔の地図を見るとわかる城郭構造

入り口は大門の1カ所のみで、周囲は女郎の逃亡を防ぐため、「お歯黒どぶ」と呼ばれた幅2間(約3.6メートル)の堀で囲まれ、忍び返しがついた高い黒板塀がめぐらされていました。


大門から入ると、行き止まりの「水道尻」までメインストリートの「仲の町」がまっすぐ貫き、四季折々の催事などはここで行われました。客と女郎屋のあいだを取り持つ引手茶屋が並び、花魁道中が繰り広げられたのもここでした。


広重『吉原仲之町』


吉原は整然と区画整理され、仲の町を直角に横切って3本の通りがありました。大門から水道尻に向かい、最初に横切る通りは、右が「江戸町一丁目」、左が「江戸町二丁目」。2番目に横切る通りは、右が「揚屋町」、左が「角町」。3番目の通りは、右が「京町一丁目」、左が「京町二丁目」。各町の入り口には木戸がもうけられていました。


景山致恭,戸松昌訓,井山能知 編『〔江戸切絵図〕』



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