#茂木健一郎 #脳の教養チャンネル #クオリアエッセイ 第52回

13 Comments

  1. おはようございます
    地球から居なくなるということは、一定期間、一瞬でも死んだことになるような気がするのですが?
    浦島太郎現象でしょうか。

  2. 全てAIでコントロールは出来ないため(しかしほぼコントロール出来るっぽい?)、人間つまり有人飛行が必要とはいえ、人間は2人か3人でいて欲しいです。人間1人vs.機会/AIとなれば、精神的に寂しくて崩れそう。当然か…🤗

  3. 速度による時間の差の話かと思ったらスピリチュアルをクオリアで説明する話だったんですね、興味深いです

  4. 実は向井千秋さんの旦那さんの万起男さんにヒューストンで会いました。万起男さんは司法解剖でない解剖をしていらっしゃいました。凄く変わった方でした。「何か殺されたということが疑われたら僕は解剖はできないんだ。」なんて仰ってました。その時にこんな仕事をしている方がいらっしゃる事をしりました。今も幽体離脱はわからない立場です。

  5. 特別な体験なんて存在しない。
    火星移住は2度と帰れないのが良いポイント。

  6. ポジティブな感想を持ち易いというお話は、アニマルスピリッツのメカニズムと関係がありそうですね。
    体外離脱体験で最近興味深く感じたのは、車椅子ユーザーの体外離脱体験では、空を飛んでいるにもかかわらず段差を越える事ができない、というお話ですね。
    神秘体験をもってしても肉体的制約は超える事ができない…宇宙に出た人類は、何処でそれを悟るのでしょうか?
    つまりは、宇宙で人類が立てる問いとは、自らの肉体についての疑問ではないかと思います。

  7. 宇宙に行った時の意識は、人によりますが、実はVRでもある程度経験可能です。
    自分はQuest2で体験しました。
    アプリの中で火星あたりまで行きましたが、基本的に果てしなく「無」「暗黒」「何もいない」「荒涼を超えた虚無」な感じ。という恐ろしい星と空間が広がっている中で、「地球に帰りたい」と強く思いましたし、地球によって我々がいかに「守られていたのか」を感じました。地球は完全に「特別な星」です。
    ただ、VR程度でこれを感じるにはある程度の感性が必要なのかもしれません。
    自分はよく沖縄に行きますが、沖縄に行くと「守られている」感をハッキリと感じます。この島は守られています。首里城も焼け落ちる前は、あのエリアに入ると「エリアに入った」という感覚を明確に感じました。
    私たちはいつも地球にいるので、地球に守られてるのが「あまりにも当たり前」になっているので、気づかないだけです。
    一旦、宇宙にいって「それが無い」という状況を感じれば、地球の潤い感、暖かさ、守ってくれてる感は、否応なく感じる人が多い気がします。
    たとえば日頃から霊とかオカルトなどの非科学的なものに非科学のレッテルを貼って内心でバカにしている人は、感覚が科学に調整されてしまっているので、神秘的な感覚には調整できない可能性が高い気がします。
    茂木先生がクオリアに関して思っておられるように、心の心たる本質の部分は従来の単純な科学的な分析ではアプローチできない領域を含んでいるように思います。

  8. 世界中の指導者たちが必ず一度は宇宙に行って地球を眺めてみたらよいのだと、思いますよ。茂木先生もぜひ一度。

  9. 宇宙の誕生は一三八億年前宇宙が誕生したと述べています。その前は、何も無い『真空』つまり『量子真空』から、ふと、『ゆらぎ』を起こし、その瞬間、量子真空が極微小の宇宙を生み出し急激に膨張ビッグバンを起こし現在の宇宙が誕生。その宇宙の片隅には、太陽という恒星、一つの惑星である地球には、様々な生命が生まれ、豊かな生態系が生まれ、そして我々人類が生まれた。つまり我々の故郷マザーは宇宙であると確信してます。

  10. 体外離脱と地球外離脱ですか・・・?
     普通に考えると、体外離脱の体験というか、その感覚作用は、身体があくまで自己意識と同じではなく、その認識や制御の対象になること、自他分離できることに始まると思います。それは自己にとっては所有格・属格で表現できるものという感覚作用を生じさせます。「私の手、私の体、私の頭、私の脳・・」と言う様にです。それは基礎に身体の新陳代謝作用があり、それが時間的変転を身体要素に感じるからではないか、と思います。そうした変転現象を対象認識し、その対象である身体を制御するという作用から発生する感覚は、自他分離意識となる気がします。
     
     中世キリスト教の「聖体神学」における次の表現は、参考にできるかもしれません。
     トマスは、アウグスティヌスの次の言葉を引用して、恩寵として与えられる聖体の存在様態を確認しています。聖体であるパンは「キリストの体」であり、「御言葉」であり、以下の文章の「私」です。
     「あなたの肉体の食物のように私をあなたに変えるのではなく、
      かえって、あなたは私に変えられるであろう 。」
      Thomas Aquinas,S.T.Ⅲq.73,a.3,cor.,ad.2. Augustinus,Confessiones.Ⅶ,c.10
     代謝作用で変転していってしまう物質的身体の様態ではなく、それを構成して個人の同一性、「私の自己意識」を保つプログラム(霊魂と古来呼ばれ、トマスは「個のイデア」としました)の発動エネルギー(エネルゲイア=現実態=存在、とトマスはしています)が、聖体から与えられるというわけです。

     「今ここnunc et hic」という現実態=存在=エネルゲイアの位置に立つと、その「魂の歴程」を眺めることできるとされ、意識作用が逆に「今ここ」にしかないことも示されます。
     こうした分析を、「体外離脱」という感覚作用で表象している気がしますが、どうなのでしょうか?
     
     地球外離脱という状態が、上の対外離脱と類比関係を有するとすれば、身体がそこで関係性をもってきた環境である地球を、「今ここ」の自己意識が対象認識している状態に似ているからでしょうか?
     あるいは、このところ問題にしている生体個体脳がコミュニケーション・ネットワークで相互エージェント社会拡張脳と成っていることが、前提かもしれません。体外離脱は個人の「私の意識」が、身体を対象化して歴程を観ますが、地球外離脱は、グローバル・ブレイン化する地球を「我々の意識」が対象認識している「今ここ」を感じている作用かもしれません。

  11. ストラットンの逆さ眼鏡という有名な実験がありますが、
    カメラを自分の頭の上に、なんなら自分の後頭部が見える位置に設置して、
    そしてそこからの映像が映る眼鏡をかけてしばらく生活をしてみると、
    つまり逆さ眼鏡と同じように やがて慣れる気がします。
    はじめは違和感があるでしょうけれども
    だんだんと普通に歩けたり普通にご飯を食べれるようになる気がするのです。
    キーボードのブラインドタッチみたいに、
    頭が邪魔してラーメンが見えなくてもラーメンすすれるみたいな、
    もともと口が見えているわけではないんだし。

    視点や映像は相対的というか何というか
    私にはうまく表現ができません。