カネミ油症事件, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=151839 / CC BY SA 3.0

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カネミ油症事件

カネミ油症事件(カネミゆしょうじけん)とは、1968年、カネミ倉庫が製造する食用油にダイオキシン類(PCBなど)が製造過程で混入し、その食用油(「カネミライスオイル」と呼ばれた)を摂取した人々やその胎児に障害などが発生した西日本一帯の食中毒事件。

福岡県北九州市小倉北区(事件発生当時は小倉区)にあるカネミ倉庫株式会社で作られた食用油(こめ油・米糠油)「カネミライスオイル」の製造過程で、脱臭のために熱媒体として使用されていたPCB(ポリ塩化ビフェニル)が、配管作業ミスで配管部から漏れて混入し、これが加熱されてダイオキシンに変化した。このダイオキシンを油を通して摂取した人々に、顔面などへの色素沈着や塩素挫瘡(クロロアクネ)など肌の異常、頭痛、手足のしびれ、肝機能障害などを引き起こした。

カネミ倉庫は油にダイオキシン類が含まれていることを知ったあとも汚染油を再精製して売り続けた結果、工場のあった福岡と再精製油が売られた長崎にさらなる被害をもたらした。摂取した患者は現在まで長きにわたり、さまざまな後遺症に悩まされている。なかでも、妊娠していた女性患者から全身が真っ黒の胎児が産まれ、2週間ほどで死亡するという事件が発生。これは社会に大きな衝撃を与え、学界でも国際会議で「YUSHO」と呼称され、世界的な関心を集めた。
患者発生の直前の1968年(昭和43年)春、カネミ倉庫製の「ダーク油」を添加した配合飼料を与えられた鶏40万羽が変死、同年3月ごろから西日本一帯で、ニキビ状の吹出物が体中にできる奇妙な皮膚炎にかかる人が続出した。

日本全国でおよそ1万4,000人が被害を訴えたが、認定患者数は2018年度末時点で2,329人と少ない。うち、相当数がすでに死亡している。家族が同じものを食べて被害にあったにもかかわらず、家族のうち1人だけが被害者に認定されるケースもあるなど、認定の基準が被害者には曖昧なものであった。

2004年9月29日、厚生労働省の所管組織である国の「油症治療研究班(九州大学医学部を中心とする研究グループ)」は、新たに血液中のダイオキシン濃度を検査項目に加えた新認定基準を発表した。また、自然界では、ダイオキシンに曝露したことの影響と見られる生殖器官の異常など動物の奇形も見られるが、直接の被害者が男性の場合、精子など遺伝子へのダイオキシン類による被害があっても、親から子へと胎内を通じて直接子孫に影響があると考えられる女性と違い、血中のダイオキシン濃度測定だけでは、世代を超えた影響は関知しえないという問題もある。

1970年、被害者らは食用油を製造したカネミ倉庫・PCBを製造した鐘淵化学工業(カネカ)・国の3者を相手取って賠償請求訴訟を起こした。

1977年10月5日、福岡民事第一審判決で、原告がカネミ倉庫、鐘淵化学工業(カネカ)にほぼ全面勝訴する。

二審では被害者側が国に勝訴し、約830人が仮払いの賠償金約27億円を受け取ったが、最高裁では逆転敗訴の可能性が強まったため、被害者側は訴えを取り下げた。この結果、被害者らには先に受け取った仮払いの賠償金の返還義務が生じることになったが、すでに生活費として使ってしまっていたケースも多く、返還に窮した被害者の中からは自殺者も出るに至った。なお、カネカは仮払い金の返還を請求する権利を有していたが、被害者らがカネカに責任がないことを認める代償として、仮払い金の返還請求権を行使しないという内容で和解に至った。

提訴は、関係者の思惑から全国統一訴訟団と油症福岡訴訟団に分かれて提起された。全国統一訴訟は国を相手にしていたが、福岡訴訟団は時間節約を目的として国を外し、カネカとカネミ倉庫を相手とした。和解終結後の認定患者に対しては、カネミ倉庫は訴訟患者の和解条件と同様の取り扱いをしているが、医療費自己負担分の支払い、一律23万円の一時金、死亡時3万円の葬祭料の支払い。鐘淵化学工業(カネカ)は新規認定患者約80人に対しては和解金300万円を支払っていない。理由として訴訟時に原告であった人だけを対象としてカネカに責任はないとする条件で和解したため、その後の認定患者への責任はないとしている。

2008年5月、「カネミ油症新認定訴訟」を福岡地裁小倉支部に提出するが、カネミ倉庫(株)の製造・販売した過失を認め、原告らがカネミ汚染油を摂取したためにカネミ油症に罹患したと認めながら、「除斥期間により権利が消…

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