文学再入門の第10回目です。本当はこの後第11回、第12回と放送があったのですが、手元にその録画がないので、これが最後のアップになります。今までこの「文学再入門」を見て頂いた皆さま、ありがとうございました。大江健三郎の世界を少しでも分かち合えたら幸いです。他にも太宰治シリーズも投稿してますので、よければそちらも見て下さい。またご縁があればお目にかかりましょう。それでは、ごきげんよう。

10 Comments

  1. 作文の心得として今は、短い文を強調するけれど、(大江と違って)中野や佐多のように鮮やかな文章となるのに出会ったりしない。と思っていたら「異化」をぶちこんできた。
    中野や佐多は、単一のことを取り上げる文でどんどん次へ移りながら、それでも大きく一つの場面を描いている、という印象を受ける(というあたりを大江健三郎自身が朗読)。

  2. 私たち生きとし生けるもの、全てのいのちにとって水は本当にかけがえのないものですね。その恵みを誰でも得られる社会を創っていきたいです✨

  3. これまで聞いた中で最も明快な異化作用についての説明でした。
    このシリーズ、毎回衝撃を受けます、素晴らしいシリーズです

  4. 村上春樹の顔写真は、むしろ見ないほうが良いかもしれない(笑)

  5. 貴重な映像ありがとうございました。第1回~第10回(8、11,12回の映像がないのは残念でしたが)ちゃんと視聴しました。もう一度、ありがとうございました。

  6. 水たまりに屈みこみ、じかに湧き水を啜ろうとして僕は、ひとつの感覚にとらえられた。その小さな水たまりの、そこだけ真昼の光を保管していたようにも明るい水の底の、灰青色や朱色や白の丸っこい小粒の石のひとつひとつ、わずかに水をにごしてまきあがる微細な砂、かすかな水面の震えのすべてが、二十年前に僕がここで見たもの、そのものであるという確実な感覚。たえまなく湧いて流れる水も、あのとき湧きだしては流れていった、あの水とまったく同じものだという、撞着にみちたしかし僕自身にとっては絶対に説得力をもった感覚。そしてそれは直接に、いま現にここに屈みこんでいる僕が、かつてそこに剝きだしの膝をついて蹲みこんでいた子供の僕と同一ではなく、そのふたつの僕のあいだに持続的な一貫性はなくて、現にここに屈みこんでいる僕は真の僕自身とは異質の他人だ、という感覚に発展した。現在の僕は、真の僕自身へのidentityを喪っている。僕の内側にも外側にも回復の手がかりはない。水たまりの透明で微小な漣がリン、リン声を発して、おまえはネズミそっくりだ、と告発するのが聞こえる。僕は眼をつむり冷たい水を啜る。歯茎が搾りあげられて舌に血の味がのこる。僕が立ちあがると、あたかも湧き水の飲み方の権威が僕に代表されているというふうに、妻が従順に僕を模倣して屈みこんだ。しかし、はじめて森をぬけてきた妻同様に、いまや僕もまたこの水たまりに対して赤の他人なのである。僕は身震いする。激甚な寒気があらためて意識に入りこむ。妻もまた身震いしながら起きあがって、水が旨かったことを示すべく微笑しようとしたが、紫色の脣が縮むと歯は怒りに剝きだされたようにしか見えない。僕と妻とが肩をよせあい黙りこんで寒さにおののきながらジープに戻ると、鷹四は無残なものでも見たように眼をそむけた。