はじめての三国志Tvをご覧の皆さん、
こんにちは、カワウソ編集長です。
7月21日(日)23:00からのはじめての三国志オンライン講義は徐州虐殺です。
曹操の最大の悪行として知られる徐州虐殺はどんな経緯で起きたのか?
今回は、そのあたりを整理して分かりやすくお伝えます。
日時は7月21日(日)23:00です。
皆さんのご参加をお待ちしています。
んがんぐ!
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しかしながら時折、あまり好ましくない表現や議論の方向性のコメントが見受けられます。皆さまが末長く歴史の楽しさを語り合えるよう、乱暴な表現やコメント、参加者同士の不毛な争いが起こっている場合は、見つけ次第、非表示にさせて頂く場合がございます。
このようなコメントも、歴史を愛する気持ちが溢れ出た上であることは十二分に承知していますが、動画を視聴し、視聴者の皆様が気持ちよく歴史感を共有できるよう、ご協力・ご理解の程、よろしくお願いします。
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#曹操 #三国志 #はじめての三国志
6 Comments
本日はご参加いただきありがとうございました。
生配信の終盤では、恒例の皆様のお名前を読み上げ、お礼を申し上げておりましたが、
その部分が配信されずに終了してしまったようです。
申し訳ございません。
今後、配信環境の見直しを行ってまいります。
配信の最後ですが、公孫淵の話で終わりましたね。
続きですが…
公孫淵「誠意は言葉ではなく官位」
そして約1800年後
⚾???「誠意は言葉ではなく金額」
アーカイブを見ました。
陸遜の虐殺?の件の解説
『軍到白圍、託言住獵、潛遣將軍周峻・張梁等撃江夏新市・安陸・石陽、石陽市盛、峻等奄至、人皆捐物入城。城門噎不得關、敵乃自斫殺己民、然後得闔。斬首獲生、凡千餘人。其所生得、皆加營護、不令兵士干擾侵侮。將家屬來者、使就料視。若亡其妻子者、即給衣糧、厚加慰勞、發遣令還、或有感慕相攜而歸者。』(陸遜伝)
この当時の江夏郡は北と南に分割されており、新市・安陸・石陽は北の魏領側なんですよ。
江夏郡(魏領)
上昶城(安陸県内の城)、鄳県、平春県、南新市県、安陸県、石陽県
江夏郡(呉領)
武昌県、竟陵県、雲杜県、下雉県、柴桑県、陽新県
陸遜の行動はその魏領江夏郡の民を南の呉領江夏郡に連れて行くといったやつなんです。
実のところ諸葛亮も似た事をやっている。
『亮拔西縣千餘家、還于漢中、戮謖以謝衆。』(諸葛亮伝)
『亮拔將西縣千餘家及維等還、故維遂與母相失。』(姜維伝)
↑諸葛亮だって街亭の戦い敗戦の時に西県で民を拉致して漢中に帰ってますよね。
姜維伝を見ると姜維は母と別れてる事が判る。
これ抵抗した者と拉致られた者があったと見て取れるからおそらく殺傷はあったと思う。
だが大の陸遜嫌いの裴松之は諸葛亮の事になると目を瞑る。
『難曰:亮有吞魏之志久矣,不始於此眾人方知也,且於時師出無成,傷缺而反者眾,三郡歸降而不能有。姜維,天水之匹夫耳,獲之則於魏何損 拔西縣千家,不補街亭所喪,以何為功,而蜀人相賀乎』(諸葛亮伝)
↑ほら陸遜よりも先に諸葛亮が民を捕まえてますよね。裴松之は民を得ても街亭敗戦での埋め合わせにもならないと言ってます。
いやいや裴松之さん、諸葛亮のやってる事は陸遜と同じなんですけど、裴松之さん其処はスルーなんですか?(私の心の叫びw)
そして陸遜の事になると目の色を変えます。それが陸遜の注になります。
せっかくだから他の事例を見てみよう。
『時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎、又略得飢民數千人。』(先主伝)
『太祖征張繍、仁別徇旁縣、虜其男女三千餘人。』(曹仁伝)
『恪以丹楊山險、民多果勁、雖前發兵、徒得外縣平民而已、其餘深遠、莫能禽盡、屡自求乞為官出之、三年可得甲士四萬。』(諸葛恪伝)
劉備は何処ぞで奪った飢民数千を連れて徐州に入っています。
曹仁なんかも男女三千を得ているとあるから明らかに諸県を襲ってます。
諸葛恪も兵を発して外県の平民を得てるとあります。
規模が大きいやつ
『以夏侯淵為都護將軍,督張郃、徐晃等守漢中;以丞相長史杜襲為 駙馬都尉,留督漢中事。襲綏懷開導,百姓自樂出徙洛、鄴者八萬餘口。』(資治通鑑)
↑漢中を得た曹操は杜襲に政治を任せる。杜襲は洛陽や鄴に八万余口の民を移住させた。
この当時の戦いを見ると国境にある民を捕まえて自領に移住させる事が目的になっています。(ある研究家の話だと国境の空白化を狙っているとも)
なので何も陸遜だけが唯一人悪いと言うわけでは無さそうなんですよ。事例にもあるように劉備も曹仁も諸葛亮も諸葛恪も何処ぞで民を捕らえている。
この時代の戦は民を捕まえる事も有りと思うしかない。
魏書に諸葛亮が無いと言う事は無い。劉曄伝にこうあります。
曄進曰: 「明公以歩卒五千、將誅董卓、北破袁紹、南征劉表、九州百郡、十并其八、威震天下、勢慴海外。今舉漢中、蜀人望風、破膽失守、推此而前、蜀可傳檄而定。劉備、人傑也、有度而遲、得蜀日淺、蜀人未恃也。今破漢中、蜀人震恐、其勢自傾。以公之神明、因其傾而壓之、無不克也。若小緩之、諸葛亮明於治而為相、關羽・張飛勇冠三軍而為將、蜀民既定、據險守要、則不可犯矣。今不取、必為後憂。」(劉曄伝)
↑劉曄は諸葛亮を統治に明るい宰相と言ってます。関羽と張飛に至っては勇冠三軍と絶大な評価をしています。
色々と補足を付けますよ。
補足①
先ず陶謙が袁術派と言うのは過去の話です。
『徐州牧陶謙謂範為袁氏覘候、諷縣掠考範、範親客健兒簒取以歸。』(呂範伝)
↑陶謙が徐州刺史から徐州牧となってる時点で李傕政権になっています。
その徐州牧陶謙は袁術からのスパイの疑いとして呂範を捕まえてます。見ての通り陶謙は袁術派から離脱している事が此処で判ります。(李傕政権は陶謙の朱儁政権樹立を諦めさせるために徐州牧にさせました)
ちなみに李傕政権から派遣された馬日磾は袁術により拘束されてます。
一方で袁術は徐州伯を自称しています。袁術と陶謙は徐州を巡って係争している状態なんですよ。
と言うかこの時期に袁術に敗れた陳瑀が下邳に逃げ込んでます。この陳瑀は陳登の従父です。
補足②
陶謙は下邳の自称天子の闕宣と与して兗州の泰山に攻め入ります。此処がポイントです。最初に兗州に手を出したのは陶謙側なんですよ。
『下邳闕宣聚衆數千人、自稱天子徐州牧陶謙與共舉兵、取泰山華・費、略任城。』(武帝紀)
↑ほら。これに絡むのが泰山太守の応邵です。
『興平元年,前太尉曹嵩及子德從琅邪入太山,劭遣兵迎之,未到,而徐州牧陶謙素怨嵩子操數擊之,乃使輕騎追嵩、德,並殺之於郡界。劭畏操誅,棄郡奔冀州牧袁紹。』(後漢書応奉伝)
↑結局曹嵩一家を助けられなかったので泰山を捨てて袁紹の所に行く。ここで出てくるのが朱霊。
朱霊は自軍だけか曹操のところに残り、あとは引き上げた。
『初、清河朱靈為袁紹將。太祖之征陶謙、紹使靈督三營助太祖、戰有功。紹所遣諸將各罷歸』(徐晃伝)
この引き上げた軍に泰山太守応邵が紛れ混んでいたと思われる。朱霊が曹操に恨まれる理由は親を救えなかった応邵を朱霊の三営が連れていった事が原因と見られている。
補足③
『初平四年、太祖征謙、攻拔十餘城、至彭城大戰。謙兵敗走、死者萬數、泗水為之不流。謙退守郯。太祖以糧少引軍還。』(陶謙伝)
↑陶謙伝だと彭城で戦って敗走。死者は数万。泗水の流れを止めた。陶謙は郯で守りに入る。曹操は食糧が少なく撤退した。
泗水の話は後漢書の陶謙伝が詳しい。
『初平四年,曹操擊謙,破彭城傅陽。謙退保郯,操攻之不能克,乃還。過拔取慮、雎陵、夏丘,皆屠之。凡殺男女數十萬人,雞犬無餘,泗水為之不流,自是五縣城保,無復行跡。初三輔遭李傕亂,百姓流移依謙者皆殲。』(後漢書陶謙伝)
↑後漢書陶謙伝には彭城と下邳の細部の地名で書かれている。
曹操は郯が抜けないので撤退する。その帰りに取慮、雎陵、夏丘が屠された。
取慮県と雎陵県と夏丘県は何処なのか?
この三県は下邳国にあります。
下邳国は県城十三城で構成されているので、曹操は下邳国の23%を屠った事になる。
何故下邳を攻めるか?
それは自称天子の闕宣が下邳国の人だから。そんな下邳で笮融は相をやっていました。その笮融にこんな記述がある。
『曹公攻陶謙、徐土騷動、融將男女萬口、馬三千匹、走廣陵、廣陵太守趙昱待以賓禮。先是、彭城相薛禮為陶謙所偪、屯秣陵。融利廣陵之衆、因酒酣殺昱、放兵大略、因載而去。過殺禮、然後殺晧。』(劉繇伝)
↑曹操が蹂躙した時に笮融は万人の男女と馬三千を連れて広陵に走ったとある。
これは曹操が到達した時には既に『もぬけの殻』だった可能性が有るんですよ。鳥も犬も居ないぐらいに。
今にして思うと、これが本物の『イナゴ戦法』だったのかもしれない(笑)
【公孫淵を調べてみたら日本と関係していたと言う話を一つ】
魏略の一文を見てみる。
「宿舒、孫綜前到呉、賊権問臣家内小大、舒、綜対臣有三息、脩別属亡弟。」
これは孫権から公孫淵の家族構成についての質問に臣の宿舒と孫綜が答えたものだ。
公孫淵には三人の息子がいる。公孫脩は亡弟を継いでるとある。
公孫淵には公孫脩の他にあと二子の存在が確認されたわけだが、内一人は亡弟と表現されているので、この問対の段階で生存しているのは公孫脩と名前不詳の一子と言うことになります。
亡弟の後を継いでいるとなると公孫脩は庶長子で亡弟こそが公孫淵の嫡子だったのかもしれない。
【公孫某生存の可能性】
魏略によると公孫淵の子供は三名。兄弟順は公孫脩、亡弟、そして公孫某(仮名)としましょうか。
司馬懿は遼東を平定した際に公孫淵の本拠地である襄平の官と15歳以上の男子を全員誅した。と晋書にあります。
可能性として公孫某は15歳未満で生き長らえた可能性があります。
そもそも公孫淵は三族刑で族滅したとも書かれていない。任子にあった公孫晃の連座はあったが公孫恭は無事に刑を逃れている。
【公孫某を別な史料から調査】
『古代氏族系譜集成』によると公孫淵の子の公孫脩の下に格と言う弟がいた事が書かれている。これにより公孫某は公孫格である事が判明する。
そして集成は云う。公孫格は公孫淵の死によって百済に入ったと。
公孫淵の敗死は238年の事なので公孫格はその年に百済に落ちたようである。
ここで疑問点にぶつかる。百済は4世紀頃に誕生した国家で三国志時代には百済は存在していない。百済の土地は『馬韓』の地と被っているので、公孫格は『馬韓』に落ちたとみて先ず間違いないだろう。
【此処からが日本史】
日本書紀に登場する燕比善那(公孫比善那)が公孫格の子孫なんです。(古代氏族系譜集成の系図を見る限りだとそうなっている)
さらに燕比善那の子孫が日本に帰化して常世氏や赤染氏となる。
この赤染氏から赤染衛門(女流歌人)が登場して大江匡衡と夫婦となる。
この大江氏は数代後に登場する大江広元(養子)の大江氏である。
8世紀、赤染氏が常世の賜姓を受け『公孫淵の末裔』であった事が判る
河内国諸蕃(嵯峨天皇の時代に編纂された氏族名鑑)にはこう書かれている。
「常世連。燕の国王、公孫淵の後なり」
こうして公孫淵の血は日本で土着した。